松 【Matsu】

松型 1番艦

松型:「松」竣工時

解説

「松」は、戦時急造型駆逐艦として知られる「丁型」駆逐艦の1番艦です。
昭和18年8月8日に舞鶴工廠で起工した「松」は、翌19年の4月28日に竣工し、「丁型」駆逐艦のネームシップとなったのです。
詳しい計画経緯は「艦型編」を参照して頂くこととして、「松」はそれまでの日本駆逐艦とは一線を画した容貌を持っていました。
艦橋構造物はこれまでの塔のような形から打って変わって箱を重ねたような形状になり、高さも低くなりました。
機関出力が「夕雲型」駆逐艦に比べて3分の1強の出力しかないため煙突も非常に細いものになり、2本の煙突の間隔は開いていて、これは抗堪性を増すために機関をシフト配置にした影響でした。
主砲は伝統の平射砲50口径三年式12.7cm砲を廃し、高角砲である40口径八九式12.7cm砲を導入しました。
また開戦以来の戦訓を汲んで、揚陸支援ために短艇に代えて小発を2隻搭載しています。
既存の機関を用いるなど、設計・建造期間を短縮、量産性を優先しつつ、一面では新たな試みも採り入れた艦だったわけです。
それが理由か、竣工後の5月中旬、「松」の所属していた第十一水雷戦隊司令部に対し、艦政本部長・杉山六蔵海軍中将が「松」を視察したいと申し入れています。
6月中旬頃を予定していた様子ですが、後述するように「松」の出動の時期と重なることから、これが実現したかどうかは残念ながらはっきりしません。

当時の新造駆逐艦は、いきなり実戦に投入されることはなく、何ヶ月か訓練部隊である第十一水雷戦隊に所属し、その間に基礎的な訓練を受けることになっていました。
「松」もまた竣工すると直ちに十一水戦に編入され、5月3日に本隊の所在する瀬戸内に回航後は、他の新造艦や修理明けの艦と共に訓練に従事します。
その頃の十一水戦には軽巡「長良」、駆逐艦では「霜月」や「秋霜」などがいました。
折しも新たに連合艦隊司令長官に親補された豊田副武海軍大将が5月3日に「あ号作戦命令」を発令するという時期であり、戦備の概成を急いでいました。
この影響で、「霜月」も「秋霜」も「松」と入れ替わるように十一水戦を卒業し、実戦部隊へと編入されて行きました。
「松」は専ら十一水戦旗艦「長良」と、「松」よりやや遅れて竣工した新造駆逐艦「冬月」「清霜」と共に訓練に従事しました。

訓練を始めて一月半が経った6月15日、米軍がサイパン島への上陸を開始しました。
連合艦隊はこれに対して逆上陸作戦を企図し、第五艦隊を中心にその準備にかかります。
十一水戦にあった内地残存艦も逆上陸作戦に参加すべく所要の改装、例えば小発搭載工事などを受けます。
「松」もこのサイパン島逆上陸作戦への参加艦に指定され、「長良」「「清霜」と共に19日に横須賀に移動しました。
「松」は揚陸作戦の支援が出来るよう計画されていたのでもともと小発を搭載しており、そのための改造は不要でしたが、横須賀工廠にて緊急造備工事を受けたようです。機銃の増載工事だと思われますが、内容は詳らかではありません。
この間、米上陸部隊を支援する米機動部隊を撃破しようと出撃した小沢機動部隊は返り討ちに遭ってしまい後退、サイパン島守備隊は孤立した戦いを余儀なくされてしまいます。
また頼みの航空部隊も、第一航空艦隊は壊滅し、八幡空襲部隊の進出も悪天候に阻まれ硫黄島への展開が遅れていました。
マリアナ沖海戦に敗れ、制空権の確保が不可能と判断した大本営は、急速にサイパン島逆上陸作戦の放棄に傾き、25日に中止が決します。
結局サイパン島では7月7日に組織的抵抗に終わりを告げ、陥落してしまいました。

絶対国防圏の一角が崩れたことを受け、大本営は後方要地の防備強化の必要性に迫られました。
特に硫黄島は、マリアナ方面よりの本土方面に対する戦略爆撃に対する早期警戒拠点として、また距離的にマリアナ諸島に対する反撃基地と成り得る点から日本側として戦略価値が高く、一方で小笠原諸島中最良の飛行場適地であることから米軍側としても戦略的価値が非常に高いと判断されていました。
しかし守備面では、第百九師団隷下の混成第二旅団(この時点では要塞歩兵隊からの改編途上)を中心とした兵力が展開していましたが全般的に脆弱で、もし米軍が来攻した場合は3週間程度しかもたないとされたことから、その増強は緊急の課題と認識されるに至ります。
防備を担当する陸軍は、サイパン島逆上陸用として準備していた兵力の一部を小笠原方面に転用することを企図します。
この意を受けて海軍側も、サイパン島逆上陸用として準備していた艦隊の一部をもって小笠原輸送に充てることを決めました。
25日、大本営の指導によって豊田連合艦隊長官は、十一水戦を中心とした兵力をもって伊号輸送部隊を編成します。
「松」も同日付で伊号輸送部隊に編入され、輸送任務にあたることになりました。

伊号輸送は、十一水戦「長良」を旗艦とし、「冬月」「清霜」「松」、第五艦隊の「木曾」「多摩」、第二十一駆逐隊(「初春」「若葉」)、その他に「皐月」「夕月」「汐風」「旗風」の巡洋艦3、駆逐艦9隻が護衛兵力となり、輸送船「能登丸」、「第四号」一等輸送艦、「第一〇四号」「第一五二号」「第一五三号」二等輸送艦【注1】を護送することになっていました。
伊号輸送部隊は3隊に分けられ、「松」は「長良」「冬月」と共に第一輸送隊となり、父島まで「四輸」を送り届けることになります。
第一輸送隊は6月28日横須賀を出発、6月30日の夕方に父島二見港に到着し、他の各隊ともに輸送に成功しました。
これにより、陸軍第百四十五連隊と5個の独立速射砲大隊、それに中迫撃第三大隊を小笠原兵団に増強できたことになります。
但し、伊号輸送各隊は主として父島に荷揚げし、それ以後は機帆船によって硫黄島に転送することにしていたので、父島に揚がった部隊・物資は第百九師団父島派遣司令部や第五十九碇泊場司令部などが中心となって所在の陸軍守備隊から労働力を抽出し、別の船便に積み替えていました。
これに対して、海岸に直接乗り付けて揚搭させる構造を持つ二等輸送艦は硫黄島へ直行することができましたし、爾後、父島~硫黄島間のピストン輸送にも活躍することになります。

「松」は「長良」と共に7月2日に横須賀に戻りますが、翌3日に伊号輸送部は解散、「松」は甲直接護衛部隊に編入されます。
この甲直接護衛部隊とは横須賀防備戦隊隷下の部隊で、主に横須賀鎮守府に所属する艦艇から成り、特命船団の直接護衛などの任務に従事することになっていました。
伊号輸送部隊に参加した各艦の多くは今度は南西諸島への輸送任務に従事することになっていたのですが、「松」だけは小笠原輸送を続けることになったのです。
早速7月6日、「松」に出撃命令が下り、伊号輸送で一緒になったことのある「四輸」を指揮、護衛して、硫黄島まで緊急輸送に従事することになりました。
この時は「松」も施設部の要員を便乗、輸送を命じられています。
同日午後、「松」は「四輸」を連れて直ちに横須賀を出撃し、8日に硫黄島に到着しました。
2隻は揚陸終了後、直ちに取って帰ろうとしますが、横防戦司令部より兄島に寄るよう命じられます。
これは二等輸送艦「第一五三号輸送艦」を救援するためでした。

「松」「四輸」の横須賀出撃に先立つ7月3日から4日かけて、硫黄島は米機動部隊による空襲と艦砲射撃を受けました。
硫黄島に集結していた海軍八幡空襲部隊は90機の戦闘機を保有しており、これをもって米軍機を邀撃したのですが、激戦の末に壊滅してしまいます。
輸送中継点である小笠原諸島も空襲の対象となり、7月4日に100機程度の空襲を受けます。
2日間にわたる米機動部隊の攻撃は激しく、大本営では硫黄島への米軍上陸も有り得ると分析していたようで、実際には行ないませんでしたが第二艦隊を硫黄島方面へ突入させることも準備していたとされています。
この際、兄島に避泊していた「一五三輸」が米軍機に発見、攻撃され、航行不能に陥ってしまったのです。
これを知った横防戦司令部は、ちょうど小笠原にあった「旗風」に対し「一五三輸」を曳航するよう命ずると同時に、硫黄島から帰ってくる「松」と「四輸」にその護衛を指示したのです。
旗風」はもう少し護衛を増やしてくれるよう打診しますが、兵力不足を理由に断られ、「松」と「四輸」の護衛で兄島から横須賀まで「一五三輸」の曳航を試みることになりました。
多くの困難が予想されたこの曳航作業は、蓋を開けてみれば成功に終わり、館山までの護衛を終えた「松」は7月12日に横須賀に帰港します。
横防戦司令部は「旗風」と「松」「四輸」に対してねぎらいの電報を打っていますが、曳航された「一五三輸」も含めた4隻の乗組員は生きた心地がしなかったのではないでしょうか。

困難な任務をやり遂げた「松」は7月15日、同じ十一水戦にあって瀬戸内海にて訓練中の姉妹艦「」「」「」と共に、第四十三駆逐隊を編成することになしました。
四十三駆は同日付で十一水戦に編入されていますので、所属そのものは変わりません。
「松」が僚艦と舳先を並べたことがあったかという点については、はっきりしたことは分かりません。
」は6月28日に大阪の藤永田造船所で、「」は6月10日に舞鶴工廠でそれぞれ竣工しており、その後は呉にて訓練に従事しています。
「松」は6月18日に呉を発し横須賀に向かっていますので、この2隻とは顔を会わせる機会はなかった可能性が高いです。
「松」の横須賀への回航ルートが豊後水道経由であれば、「」と擦れ違っていたかも知れません。
残る「」は6月16日に横須賀工廠で竣工して以後、6月一杯そこを動いていません。
6月19日に横須賀に到着した「松」は、そこを根拠地に硫黄島輸送を繰り返していますので、ひょっとしたら「」とは何度か顔を会わせていたかも知れません。
ただ、姉妹艦と一緒に行動することがなかったのは間違いないようです。

7月16日、今度は3718船団が編成されます。
「四輸」「一〇四輸」「一五二輸」の輸送艦3隻に「龍江丸」「九州丸」「弥生丸」「敦賀丸」の4隻の商船が輸送役となり、これを「松」「旗風」「千鳥」「第五十二号駆潜艇」「第六玉丸」「慶南丸」が護衛するというものでした。
船団は目的地別に甲分団と乙分団に二分割され、「松」は甲分団を率いることになり、「旗風」と共に高速の3隻の輸送艦を護って硫黄島に直行することになりました。
輸送船から成る乙分団は、「千鳥」が指揮して父島への輸送になります。
船団は18日に横須賀を出撃し、硫黄島に人員・物件を揚陸後、23日に横須賀に帰着します。

横須賀に戻った「松」に対し、25日、横須賀鎮守府司令長官から「甲直接護衛部隊より外し、乙直接護衛部隊に編入する」旨の命令が下りました。
乙直接護衛部隊とは、陸軍が小笠原地区の防衛部隊を緊急輸送することになったのですが、その輸送を成功させるために編成された護衛部隊で、第二護衛船団司令部、「松」「旗風」「第四号海防艦」「第一二号海防艦」「第五十一号駆潜艇」「第五十二号駆潜艇」によって構成されたとされています。
ちなみにここに出て来る「第二護衛船団司令部」とは、特設船団司令部の一つです。
特設船団司令部とは、海上護衛総司令部所属の部署で、輸送船団の指揮運航を所掌していましたが、特徴的なのは司令官のみが固定されていて、その他の司令部要員は全て臨時の要員であり、また固有の艦艇も持っていませんでした。
任務の都度、要員を集めて司令部を組織し、海上護衛総司令部が準備する艦艇を用いて護衛部隊を編成、船団の指揮運航に当たるのです。
中部太平洋方面諸島の防備強化のための大規模輸送作戦である「松輸送」を機に設けられた機関で、護衛船団司令部は第一から第七までありました。
話を元に戻しますが、この時の第二護衛船団司令部の司令官は高橋一松少将であり、司令部は海上護衛総司令部から一時的に横鎮長官の指揮下に編入【注2】されていました。
これに加えて、連合艦隊から第三航空戦隊の「瑞鳳」、六十一駆(「秋月」「初月」)、四駆(「山雲」「野分」)が派出命令を受け、船団護衛の為に臨時に横鎮長官の指揮を受けることになりました。
横鎮長官はこれも乙直接護衛部隊に編入し、第二護衛船団司令部の指揮下に入れています。
但し「瑞鳳」は攻撃空母としてではなく対潜空母としての運用で、653空の飛行機隊は搭載せず、対潜哨戒用として931空から派遣された九七艦攻12機を搭載して出撃することになりました。
「瑞鳳」隊は船団を直接護衛するわけではなく、船団に対して約50浬の距離を置く間接護衛に当たることになっていました。

乙直接護衛部隊が警戒に当たるのは、陸軍船「昌元丸」「利根川丸」、海軍船「延寿丸」「第七雲海丸」「北海丸」「九州丸」の輸送船6隻と、「二輸」「四輸」「一三三輸」の輸送艦3隻で、3729船団と呼ばれることになりました。
3729船団は、例によって高速の輸送艦は直接硫黄島へ向かい、低速の輸送船は父島を目的地としました。
搭載物件は残念ながら判然としません。
高橋司令官は「松」に座乗し、「旗風」と共に輸送船6隻を直衛します。
小笠原への航海の途中、今回の輸送作戦に関係する各部隊は、何度も米潜水艦が発したらしい電波を捕らえます。
しかし3729船団は別働する「瑞鳳」隊や父島特別根拠地隊などの支援を受け、8月1日、父島に無事到着することが出来ました。
「瑞鳳」隊は船団が父島に到着した時点で任務を完了したものとされ、乙直接護衛部隊の指揮を解かれて連合艦隊に復帰、内地へ帰投することになります。
3隻の輸送艦とそれを守る「第四号海防艦」も父島までは船団に同行しましたが、父島近海で分離、そのまま硫黄島へ直行します。
父島に到着した船団は、揚塔作業も順調に進んで3日にはほぼ終了していました。
輸送任務を完璧に果たした船団には安心感が漂っていたと言います。

そこへ冷水を浴びせかけるように、米機動部隊が接近してきているらしいとの警報がもたらされます。
硫黄島にせよ父島にせよ、既に防空戦闘機の数は激減しており、このまま安穏としていては米艦載機にいいように攻撃されてしまいます。
「松」の高橋司令官は8月3日の夕刻、4804船団を組織する命令を発しました。
4804船団は、「昌元丸」「利根川丸」「延寿丸」「第七雲海丸」「龍江丸」の5隻の輸送船と、「松」「旗風」「第五十一号駆潜艇」より編成されることになりました。
高橋司令官の命令には、これに「第四号海防艦」「第十二号海防艦」を加える可能性があると付け加えています。
この2隻は輸送艦を護衛して硫黄島へ揚陸を済ませ、ちょうど父島に引き上げてきている途中でした。
実際に2隻を合流し、他に「第四号輸送艦」も加わった可能性があります。
「第二号輸送艦」は父島二見港に向かい、船団には合流していない模様です。
果たして明くる4日朝、父島のレーダーが接近する敵編隊を探知し、空襲警報が発報されました。
4804船団の各艦船は9時半に父島を後にし、本土に向けて北上を始めました。
しかし1時間も経たないうちに、米艦載機が父島上空に到達してしまいます。
この日、父島方面を空襲したのは、第58機動部隊の第1群(「ホーネット」「フランクリン」「キャボット」)の各母艦を発した機体でした。
米機動部隊の方は「瑞鳳」出動の情報を得ていたらしく、その捕捉が目的だったようで、輸送船や陸上施設を叩きに小笠原に接近して来たわけではなかったようです。
しかしお目当ての「瑞鳳」は既に本土に引き返しており、父島の近海には船団と小艦艇、機帆船しかありませんでした。
となれば、この中では輸送船が最も利益の大きい獲物です。
この時4804船団は輸送船を中央に置き、その右側を「松」「第十二号海防艦」駆潜艇(艇名不詳)の列で、左側を「旗風」「第四号海防艦」駆潜艇(艇名不詳)の列で固めていました。

10時半より米艦載機の空襲が始まりましたが、船団は空襲を良く凌ぎ、この第一波空襲は撃退に成功します。
続いて13時から第二波の攻撃が始まります。
この空襲では輸送船「延寿丸」が雷撃機に襲われ、被雷してしまいました。
これによって「延寿丸」は航行不能に陥り、13時半頃に沈没してしまいます。
それ以外の船団は空襲に耐えつつなおも航進を続け、父島の北方にある聟島をどうにか通過しましたが、16時ごろ、聟島北西海域でこれまでで最大の第三波の攻撃に遭遇します。
この空襲は苛烈で、輸送船は次々と被害を受け、黒煙を噴き上げて停止していきました。
空襲がようやく終わった夕方には、輸送船は「利根川丸」を残して全滅してしまいました。
「第七雲海丸」は16時18分頃に被雷、轟沈。
「昌元丸」は16時23分頃に被雷、沈没。
「龍江丸」は17時過ぎに被雷。17時40分頃に沈んでいきました。
残る「利根川丸」は至近弾、機銃掃射によって穴だらけにされていましたが、辛うじて航行が可能でした。
「松」率いる乙直接護衛部隊の各艦も健闘したようですが、所詮は多勢に無勢で輸送船団を守りきることはかないませんでした。
逆に護衛艦艇も「第四号海防艦」「第十二号海防艦」などが銃爆撃を受けて至近弾などによって少なからず被害を受けていました。
空襲による「松」の損害は不明ですが、恐らく同様の被害を出していたものと思われます。

空襲が終わると、健在な各艦艇は撃沈されて漂流中の輸送船乗組員の救助を始めていました。
損傷を受けた「旗風」「第十二号海防艦」「第五十一号駆潜艇」はバラバラになってしまっており、横須賀に向けてそれぞれが航行していたようです。
「第四号海防艦」の視界内には「松」と「利根川丸」だけが浮かんでいました。
既に日は暮れて、夜の帳が下りていました。
そこへ、突然大きな水柱が立ちました。
18時から18時半頃だったと言います。
「利根川丸」では最初、空襲だと認識したようですが、すぐに艦砲射撃であることに気付きました。
それは、米機動部隊が小笠原諸島の艦砲射撃の為に予め分離していたデュボーズ少将率いるTU58.1.6【注3】でした。
第13巡洋艦戦隊を基幹とし、軽巡「サンタ・フェ」「モービル」「ビロクシー」「オークランド」、駆逐艦「イザード」「チャレット」「バーンズ」「コグスウェル」「ナップ」「インガソル」「ブラウン」から成る、有力な高速艦隊です。
これに対し、味方は「松」と「第四号海防艦」のみであり、まるで戦になりません。
かと言って逃げ出そうにも「利根川丸」は平常時でも最大11ノット、「第四号海防艦」も17ノット。「松」でさえ27ノットであり、ましてや昼間の空襲で損傷著しくカタログ通りの速力などとても無理だったでしょう。
米デュボーズ艦隊は30ノットを超す速力を誇っており、とても逃げ切れそうにありませんでした。
この時、「第四号海防艦」は「松」から「四号海防艦は利根川丸を護衛し戦場を離脱せよ」という電文を受け取っています。
3隻は、なるべく距離を縮められないように逃げ出しました。

船団は遠距離から砲撃を受けつつも退避に努め、19時過ぎまで致命傷を免れていました。
しかしじわじわと距離を縮められ、米艦隊の砲撃もそろそろ有効になりつつありました。
米艦隊は、目標を「松」と「利根川丸」に置いて砲撃を続けていたようです。
「第四号海防艦」は主砲の砲弾を対空用から対艦用に切り替え、砲戦に備えます。
「利根川丸」の船上でも、陸軍船舶砲兵隊の生存者が備砲の高射砲を水平にし、米艦隊に向けていました。
その時、「松」から「四海防、四海防」と呼び出しがありました。
続いて「第四号海防艦」は、「我、敵巡洋艦と交戦中。只今より反転、これに突撃・・・」という電文を受け取ります。
そして「松」は反転、米艦隊へ向かっていきました。
米艦隊と砲戦を交えつつ、被弾・炎上、遂に撃沈されたのです。
「松」が逃がそうとした2隻ですが、「利根川丸」は逃れることが出来ず、21時過ぎに米艦隊によって止めを刺されて【注4】沈没してしまいました。
「第四号海防艦」だけは辛うじて虎口を脱し、横須賀に帰投することが出来ました。
「松」の最期の様子は、この時生き残ることが出来た「第四号海防艦」乗組員が戦後に回想したものです。
撃沈された「松」は、高橋司令官と吉永艦長以下、総員が戦死したと言われていました。

ところが、「松」には何名かの生存者がいました。
少なくても後部砲員を中心とする4名が生き延びたようで、そのうちの2名の二等兵曹が戦後、第二復員省の聞き取り調査に回答を寄せています。
この「松」乗組員は、「松」沈没後12時間ほど漂流してから救助されたとなっていますが、最終的に何名がどういう手段で命永らえたのかは調査できませんでした。
恐らく米艦隊に救助されたのではないかと推定しますが、定かではありません。
彼らの証言によれば、「松」の最後の戦闘は以下のようになっています。

「松」は18時過ぎ、米艦隊による奇襲を受けました。
沈没した輸送船乗組員の救助作業に人員を割いていたため、警戒が疎かになったと生存者は語っています。
第1弾が水柱を上げた時、「松」では米艦隊の存在に気づいておらず、対空戦の号令がかかったようです。
しかし敵機は見えず、続く第2弾の時に初めて敵艦隊の奇襲であることを知りました。
「松」は直ちに砲戦の準備に切り替えます。
乗組員は18時半頃と回想していますが、「松」からは敵の艦影を視認することが出来ませんでした。
この点、「敵艦隊を視認した」とする「第四号海防艦」の艦長の回想と食い違いが見られますが、一方「利根川丸」の船砲隊生存者の回想でも「明滅する砲撃の閃光が確認され」とあることから、最初は敵艦影が見えたのかも知れませんがその後は日が暮れて視認できなくなったのではないかと想像します。
いずれにせよ夜戦ではレーダーを完備する米艦隊が圧倒的に有利でした。
やがて「松」は中部に被弾し火災が発生、後部では艦橋からの指示が全く絶たれてしまいました。
証言によれば砲術長が後部にあり、砲術長の直接指揮によって後部2番砲だけが反撃を行なったと言います。
敵の艦影が見えないため、敵の発砲の際の閃光を目標に撃ち返すという状況でした。
しかし有効な反撃は出来ないまま「松」は炎上、後部で誘爆が発生し、19時半頃、後部から沈没していきました。

昭和19年8月4日~5日かけての米機動部隊による小笠原砲爆撃は、同方面において行動中の日本軍艦船に甚大な損害を与えました。
既に述べたように4804船団の輸送船は全滅し「松」も沈没、「弥生丸」「二輸」も聟島周辺で沈みました。
「四輸」は父島で、「一三三輸」は硫黄島で失われ、その他小船艇も何隻かが失われているようです。
しかしこの後も小笠原輸送は継続され、輸送に従事する輸送船乗員と陸海軍将兵の損害は止まるところを知らず、最終的には昭和20年3月末、硫黄島の栗林兵団2万名の玉砕によって小笠原方面の攻防戦はクライマックスを迎えることとなります。
竣工後の「松」はひたすら小笠原輸送に従事し、小笠原輸送の前半の山場において船団と運命を共にしました。
「松」の関わった輸送作戦は、往路に限っては最後の3729船団を含めて全て成功裏に終わっており、小笠原兵団への貢献は評価できます。
「利根川丸」を身を挺して守ろうとした「松」の行動は、最終的には報われなかったとは言え、護衛艦隊旗艦としての責務を立派に果たしたと言えるでしょう。

【注1】
当時はまだ「二等輸送艦」という艦種は設けられておらず「特設輸送艦」と称されていました。「特輸」、もしくは「SB艇」と略されます。本稿では「二等輸送艦」で用語を統一しておきます。
また輸送艦は海軍の艦艇(一部の二等輸送艦は陸軍の持ち船)であり、本稿では護衛される側として表現していますが、当時の命令などを見ると輸送船などを護衛する側として扱っていることの方が多いです。

【注2】
実のところ、乙直接護衛部隊の指揮系統について明確に解説を加えている資料はありません。
乙直接護衛部隊という名前自体、まず知られていませんので無理もありませんが。。。
海上護衛総司令部に属する第二護衛船団司令部が同部隊全体の指揮を執っていることははっきりしています。
しかし海上護衛総司令部が面倒を見ていたわけではなく、横須賀鎮守府司令長官に預ける旨の命令があることから、直接の指揮は横鎮長官が司っていた様子です。
これは、小笠原方面を含む中部太平洋方面輸送の管轄が横鎮であったことから見ても正当性があります。
また横須賀防備戦隊には「甲」直接護衛部隊が存在しており、わざわざ「乙」直接護衛部隊と称していることも、横鎮の指揮系統にあったとすれば辻褄が合います。
横鎮部隊にあって小笠原方面の輸送を司っていたのは横防戦でしたが、第二護衛船団司令部の司令官が高橋少将であることから、序列上の観点から横防戦指揮下にはなかったであろうと思われます。
なお横防戦の戦時日誌には、乙直接護衛部隊の行動についてはほとんど記述がなく、その指揮下になかったことが伺えます。
以上から、乙直接護衛部隊は横鎮長官の直接指揮下にあったものと推定しています。

【注3】
TF > TG > TU の関係です。
TF:Task Force=任務部隊。
TG:Task Group=任務群。
TU:Task Unit=。。。どう訳すのでしょうか。「隊」とでも訳しておいた方が無難でしょうか。
一応、第58任務部隊・第1群・第6隊というところにしておきます。
なお、デュボーズ隊の編制は次の通り。

【注4】
「利根川丸」はB-24の夜間爆撃によって撃沈されたという資料もありますが、同船に乗船していた陸軍船舶砲兵の生存者の回想では、艦砲射撃によって火災が発生し、延焼が止められずに弾薬等の誘発を引き起こして沈没に至ったとなっています。
なお米艦隊の指揮官、ローレンス・T・デュポーズ少将は、圧倒的な戦力を持ちながら「松」に振り回され、結果的に付近にいた「旗風」他の艦艇を逃してしまっています。
彼はエンガノ岬沖で小沢部隊追撃にも参加し、やはり殿の「初月」に気を取られ、この時も「五十鈴」などを取り逃がしています。
日本側としては、追撃戦の指揮官がこの提督で助かった面があったのかも知れません。

略歴
昭和18年 8月 8日 舞鶴工廠にて起工
昭和18年12月22日 命名
昭和19年 2月 3日 進水
昭和19年 4月28日 竣工
第11水雷戦隊に編入
昭和19年 5月 1日~ 舞鶴発、徳山着(5月2日徳山着)
昭和19年 5月 3日~ 徳山発、呉着(5月3日着)
昭和19年 5月 8日 呉発、柱島着
昭和19年 5月14日 柱島発、八島着
昭和19年 5月15日 八島発、亀川着
昭和19年 5月20日 亀川発、徳山着
昭和19年 5月21日 徳山発、八島着
昭和19年 5月22日 八島発、八島着
昭和19年 5月23日 八島発、室積着
昭和19年 5月29日 室積発、八島着
昭和19年 5月30日 八島発、八島着
昭和19年 6月 1日 八島発、呉着
昭和19年 6月 5日 呉発、室積着
昭和19年 6月 7日 室積発、室積着
昭和19年 6月13日~ 室積発、八島着(6月14日着)
昭和19年 6月14日 八島発、徳山着
昭和19年 6月18日~ 徳山発、横須賀着(6月19日着)
昭和19年 6月28日~ 横須賀出撃、伊号輸送に参加
(第十一水雷戦隊/伊号輸送部隊)
昭和19年 6月29日~ 湊沖発、父島着(6月30日着)
昭和19年 7月 1日~ 父島発、横須賀着(7月 2日着)
昭和19年 7月 3日 伊号輸送部隊より除かれ、甲直接護衛部隊に編入
昭和19年 7月 6日~ 横須賀~硫黄島にて、第四輸送艦護衛任務(7月8日着)
昭和19年 7月 9日~ 硫黄島発、横須賀着(7月12日着)
昭和19年 7月15日 第11水雷戦隊・第43駆逐隊に編入
昭和19年 7月18日~ 横須賀~硫黄島にて、3718船団護衛任務
昭和19年 7月23日 横須賀着
昭和19年 7月25日 甲直接護衛部隊より除かれ、乙直接護衛部隊に編入
昭和19年 7月29日~ 館山~父島にて、3729船団護衛任務(8月2日着)
昭和19年 8月 4日 父島発、4804船団護衛任務
昭和19年 8月 4日 4804船団護衛中、聟島沖にて水上戦闘により沈没
昭和19年10月10日 類別等級表より削除
除籍
2003.10.19初出
2003.10.20改訂
2003.10.31改訂
2004.01.05改訂
2004.01.16改訂
2007.12.02改訂
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