初春型 【Hatsuharu class】

初春型:「初春」竣工時 初春型:「初春」復原性能改善工事後
要目(計画時) (新造時) (開戦時)
基準排水量 1400t 1700t
公試排水量 1680t 2070t
全長 109.5m 同左
全幅 10.0m 同左
平均吃水 3.03m 3.49m
主機械 艦本式オールギヤードタービン2基 同左
軸数 2軸 同左
主缶 ロ号艦本式専焼缶3基 同左
機関出力 42000馬力 同左
速力 36.5ノット 約34ノット
燃料搭載量 458t 482t
航続距離 14ノット-4000浬(計画) 同左
乗員 205名
214名(有明夕暮
同左
同左
主要兵装
主砲 50口径12.7cm連装砲2基
50口径12.7cm単装砲1基
同左
同左
魚雷発射管 61cm三連装発射管3基(次発装填装置付)
同2基(有明夕暮
61cm三連装発射管2基(次発装填装置付)
同左
機銃 毘式40mm単装機銃2基 同左
爆雷投射機 両舷用1基
片舷用2基(有明夕暮
同左
同左
爆雷投下台 手動式4基
水圧式2基
撤去
撤去
爆雷投下軌条 1基
基本計画番号 F45
同型艦 6隻
同型艦一覧 初春子日若葉初霜有明夕暮

計画経緯

本型は特に傑出した性能の駆逐艦というわけではありませんでした。
しかし、本型ほど造船技術の推移に翻弄された駆逐艦はなく、その意味で非常に有名な駆逐艦です。

1922年(大正11年)、ワシントン軍縮条約が締結されました。
主力艦の保有数を制限するこの条約により、戦艦の保有数を対米6割に抑え込まれた日本海軍は、米太平洋艦隊の迎撃作戦に抜本的な見直しを迫られることになりました。
そして導き出された解答の一つが、水雷戦隊による襲撃です。
軍令部は、この襲撃任務を満足することのできる、艦隊型駆逐艦の整備に躍起になりました。
日本の駆逐艦に求められる能力は、この軍令部の要求から察することが出来ます。
それは、決戦場と予想される内南洋まで独力で進出しうる強靭な耐波性と、敵主力艦に対する襲撃を有効ならしめる重雷装でした。

この要求を明確に具現化した初めての駆逐艦が、「吹雪型」です。
この「吹雪型」は、「革命的」と言われるほどの成功作になりました。
しかしあまりの優秀さゆえに、列強の強い警戒心を呼び起こしてしまいます。
当時、ワシントン軍縮条約によって各国の主力艦の保有数に制限を設けていましたが、列強は補助艦艇にも制限を設けることにしたのです。
この結果、1930年(昭和5年)にロンドン軍縮条約が締結されます。
日本の駆逐艦の保有量は総排水トン数105,500tに制限され、新造できる駆逐艦1隻の大きさも排水量1500t以下に制限されてしまったのです。
これにより日本は、「吹雪型」のような大型で優秀な航洋型駆逐艦を建造することを制限されてしまったのです。

もっとも、日本海軍としても高価な「吹雪型」の大量生産は予算面から非常に厳しく、補助艦の軍縮条約が現実味を帯びるより前から「吹雪型」の建造中止が決定していました。
駆逐艦を重要な戦力と考える海軍は、艦型を縮小してでも隻数を揃えたかったのです。
そこで海軍は「吹雪型」登場以前の「峯風型」と「樅型」のペアのように、一等駆逐艦と二等駆逐艦の二本立てで駆逐艦を整備していく方針に転換します。
ここで計画された一等駆逐艦は「吹雪型」のような大型駆逐艦ではなく、一回り小さな中型駆逐艦とでも呼ぶべきものでした。
この新計画中型駆逐艦は、1500t程度の大きさとされましたが、兵装はすこぶる強力なもので、「吹雪型」にほぼ匹敵していました。
小さな駆逐艦にして数を揃える守りの計画どころか、画期的な駆逐艦を生み出そうという野心的な計画だったのです。
この画期的駆逐艦は計画倒れだったのではなく、具体的な設計概要がまとめられ予算折衝も開始されていました。
しかしここでロンドン海軍軍縮条約という別の足枷が加わった結果、総トン数による制限がつけられ、海軍の目論見はその根幹を揺るがされました。
小型駆逐艦の計画は完全に見直さざるを得なくなってしまいましたが、中型駆逐艦の計画は残りました。
ロンドン条約の最大1500t以下という制限をクリアしてたためです。
この画期的中型重兵装駆逐艦こそ、本型「初春型」です。

しかしここで日本海軍は気付くべきでした。
基準排水量1680tの大型駆逐艦である「吹雪型」でさえ、あれだけの兵装を実現するには軽合金を使うなどの涙ぐましい努力を重ねたのです。
その性能を、排水量にして300t、約2割弱少ない船体で実現しようと言うのです。
計画段階からして、無理が生じることは容易に想像が出来たのです。
なぜこのような無理な設計がなされたのかは、具体的な証言のある文献が手元にないので、はっきりしたことは言えません。
恐らくは、軍縮条約という軍にとっての国難の前に、技術陣は用兵側の要求を呑まざるを得なかったのではないのでしょうか。
この危惧は完成後、即座に現実の問題として「初春型」の上に圧し掛かってくることになったのです。

特徴

本型は、1930年(昭和5年)の第一次海軍軍備補充計画(マル1計画)によって12隻の建造が計画されました。
そして本型の1番艦「初春」が、優美と言うより獰猛と表現した方がしっくり来るその姿を現したのは、1933年(昭和8年)の夏のことです。
三連装魚雷発射管を、背負い式にしてまで3基を搭載。
前甲板に雛壇式に連装、単装主砲塔を各1基。
暁型」に準じた大型艦橋構造物。
しかも次発装填装置を史上初めて装備、搭載魚雷数は予備魚雷を含めて18本。
機関は「吹雪型」のものに比べ蒸気条件が改良され必要重油量が減少、機関自体も軽量化に成功。
電気熔接を広範に採用し、リベット分の重量を軽減。
こうして「初春型」は、「吹雪型」に準ずる兵装を持ったまま、基準排水量1400tを達成しました。
しかしこのどれもが、ある一つの問題点へと集約していたのです。
それは「重心の上昇」でした。

公試運転を開始した「初春」は、およそ37ノットをマークし、優秀な性能をアピールします。
しかし同時に、大きな欠陥を露呈してしまいました。
わずか10度の転舵(船の最大舵角は35度)で実に38度の傾斜を記録したのです。
諸元で見ても新造状態での復原範囲は当時59.2度(公試状態)となっており、「特型駆逐艦」で最も後期の「暁型」の値76.9度(公試状態)に比較しても相当に悪化していました。
これは実戦においてはもちろん、平時ですら無視し得ない大問題でした。
本型は就役前にして早くも失格の烙印を押されかけたのです。
そこで海軍は、両舷に30cmずつのバルジを追加して復原範囲を70.6度にまで増し、就役させることにします。
ここで打たれた対策は、当時としては理論上正しい対策でした。
現在であれば更に動復原力(艦を傾けるのに必要な力)をも考慮しますが、当時は静復原力(船が元の姿勢に戻ろうとする力)については理論研究がある程度進んでいたのに対し、動復原力についての研究はほとんど認知されていませんでした。
後にこの点を突くような重大な事件が発生することになります。

初春」の異常傾斜事件の影響は、後続して建造中であった同型艦にも及びました。
まず、計画時の設計での完成は「初春」と「子日」に止まり、この2隻も就役する前にバルジが装着されてから就役することになりました。
また既に建造中であった「若葉」「初霜」については、建造中にバルジの装着が行われています。
続く「有明」以降の艦は、当時まだ工事がさほど進んでおらず、このバルジ分だけ艦そのものの幅を広げるように設計を変更しました。
また異常傾斜対策として舵を包丁型と呼ばれた形状のもの2枚とし、それぞれプロペラ(スクリュー)の後ろに配置されました。
このせいか「有明」以降の艦は本型とは区別され、「初春型」とは別個の「有明型」に区分されることになりました。

バルジ装着により実用上問題無しと判断され艦隊に編入された「初春型」ですが、事はそれほど単純なものではありませんでした。
初春」「子日」の竣工した翌年の1934年(昭和9年)3月12日、あの「友鶴事件」が発生したのです。
佐世保を出動して訓練中だった水雷艇「友鶴」が荒天の為に転覆してしまったのです。
この友鶴転覆事件は「初春型」の存在を大きく揺るがすことになります。
しかも事件発生当時「初春」「子日」は第二十一駆逐隊を編成して佐世保にあり、「友鶴」遭難の報を受けて捜索に出動しているという皮肉ぶりでした。

この「友鶴」は水雷艇という艦種ですが実態は小型駆逐艦であり、「初春型」とほぼ同一のコンセプトで設計されていました。
すなわち「小さい船体に重兵装」です。
しかも「初春型」と同様、公試時に異常傾斜(28ノット、舵角15度で30度傾斜)を起こし、バルジ追加による対処という点まで同じでした。
それが悪天候の中、追い風・追い波の状態で低速航行中転覆してしまったのです。
しかもこの荒天が何十年に一度という予想し得ない程度のものだったわけではなく、通常予想される範囲内の荒天であったことが、海軍をして更に激しく動揺させることになりました。
戦闘で敵の砲火の中を突き進むべき海軍艦艇が、天候によってあっけなく転覆してしまったわけです。

直接の転覆原因はブローチングと呼ばれる一種の波乗り状態に陥ったためだろうと推測されています。
こうなると操舵ができずに急転舵の格好で波の谷間に滑り落ち、旋回に伴う遠心力によって大傾斜となります。
しかしブローチングに陥ってしまった際に転覆してしまうのは、明らかに艦側に問題があります。
海軍は直ちに原因究明に乗り出し、転覆原因が重心点が高すぎることと風圧面積の過大によって復原力が不足していたことにあったことを突き止めました。
この事件について調べると、GM値やOG値といった復原性についての話になってしまいます。
私も完全に理解しているわけではないので、詳細は専門書を参照して頂くとしてここでの解説は避けます。
話を極端に単純化すれば、「友鶴」のように重心が高い(いわゆるトップヘビー)艦船の場合、艦船が傾いたときに元に戻ろうとする力のモーメントが小さくなってしまうので、結果的に耐えきれずに転覆してしまう可能性が高くなるということです。
吹雪型」以来採用されてきた艦幅を拡大してGM値を増大するという手法では、傾斜が小さいうちの復原性を保証してくれますが、艦船の傾斜が大きくなると復原性を保証できないのです。

GM値の増大だけでは復原性の確保に万全でないことが判明したことは、「初春型」にとっては致命的でした。
何しろ「初春型」の重心位置は転覆した「友鶴」よりも高い位置にあったからです。
「初春型」はその年の内に、重心位置を降下させ風圧面積を減少させる復原性能改善工事を受けることになりました。
これは艦容が一変するほどの大規模な改正でした。
魚雷発射管1基を削減、予備魚雷3本の削除。
前部のセルター甲板に据えられていた単装砲塔を後甲板へ移設。
艦橋の縮小、軽量化。
バラストの搭載。
一部重油タンクへの自動海水補填装置の装備。
その他、ありとあらゆる重心降下策が打たれることになったのです。
また新造時にGM値を増大するために設けられたバルジは、重心降下によって必要性がなくなったので撤去されることになりました。

「友鶴事件」による復原性能改善工事は、就役済みだった「初春」と「子日」については、直ちに実施されました。
また建造中であった「若葉」「初霜」については、進水後に同様の対策が施されます。
続く「有明」「夕暮」は、バルジ分艦幅を広げて建造しつつあったので、バルジを削った元の設計に戻された結果、造り直しの憂き目に遭うことになってしまいました。
こうして工事の結果、「初春型」は竣工時よりはるかに復原性が向上し、実用上問題のないレベルにまで引き上げられたのです。

復原性能が改善された「初春型」ですが、「友鶴事件」の翌年の1935年(昭和10年)9月25日、今度は「第四艦隊事件」が日本海軍を揺るがすことになります。
台風による激浪が、「吹雪型」を始めとする艦艇に重大な破損を与えた事件です。
「友鶴事件」の余波もまだ冷めやらぬうちの今回の「第四艦隊事件」に、全海軍は激しく動揺しました。
海軍はすぐさま原因究明を行い、その結果、今度は船体強度の不足が指摘されることとなったのです。
船体の軽量化を図って様々な部位の強度が削られ、その限界を超えつつあったことが最大の原因ですが、溶接構造を使って重量軽減に努めた新型艦艇にはまた別の問題が内在していました。
当時の溶接技術はまだ未熟で、内部応力が広範囲に残存したままだったのです。
「初春型」や軽巡「最上型」などの溶接構造艦では、船体の前後端が上に反り返るような力が残っており、船体強度への重大な影響が懸念されたのです。
「初春型」は即座に船体強度改善工事に着手することになりました。
今回の工事は、艦容が変わるような工事ではありませんでしたが、前回の工事が2ヶ月程度で終了したのに対し、今回は7~9ヶ月もの長期間を要しました。
これは、前回が主として艦上構造物に対する工事であったのに対し、今回が甲板や外板の張り替え、熔接部を引き剥がし鋲止で接合し直すなどの、船体そのものへの工事であったためでしょう。

性能改善工事の結果、「初春型」は船体強度も十分過ぎるほど強化され、実用上全く不安のない駆逐艦になりました。
しかしその為に払った代償は大きく、計画当初の高性能・重武装駆逐艦という位置づけは失われ、平凡な性能の中型駆逐艦という位置づけになってしまいました。
特に、船体強度改善工事後の「初春型」の基準排水量は1700tにも達し、速力も当初の37ノットから34ノット弱と低下、9射線を誇った重雷装も6射線とかなり弱体化し、海軍の目論んだ「画期的中型駆逐艦」の夢はここに露と消えたのです。

ところで「有明」と「夕暮」の2隻については、建造の経緯がやや混乱していますので、ここに改めてまとめます。
まずは「初春型」の設計から考えなくてはならないでしょう。
「初春型」の設計では、恐らく相当な苦労があったものと推測できます。
「初春型」の設計者は「吹雪型」と変わっておらず、用兵面でも特段の変化は認められないことから、兵装の配置についてはこれまでにない全く新しい配置を採用することはそうそうないでしょう。
しかし排水量制限で艦の大きさが小さくなっている上に次発装填装置という厄介な装備が追加されるので、配置面では大きな問題になります。
特に「吹雪型」で2番砲が配置されている位置は、「初春型」では三番連管用の予備魚雷が占有しており、2番砲の置き場所がありません。
追い出された2番砲は空いている前部セルター甲板に配置せざるを得ないわけで、苦し紛れの配置だったのではないでしょうか。
もちろんこの配置だと艦橋の視界が悪くなるので、艦橋の背を高くするか、復原性上これを嫌うのであれば砲塔を1基にするほかありません。
砲塔数の減少は確かに検討された形跡があり、砲熕部の技術士官のノートには「1400トン駆逐艦の艦橋を低くするために」と12.7cm三連装砲塔の予想重量が記されています。
結局は実現せずに史実のような連装2基、単装1基の配置になったわけですが、この配置は当時でもベストとは言えなかったのでしょう。

さてこれを踏まえた上で「有明型」の建造経緯を考えます。
当初「初春型」は12隻を建造する予定でしたが、1番艦「初春」が1933年(昭和8年)9月の就役時に異常傾斜事件が発生し、この対策が考慮されました。
この時点でまだそれほど建造が進んでいなかった「有明」と「夕暮」、それと建造未着手であった「白露」以下は船型を改めることになりました。
船体は「初春」が異常傾斜対策として装着したバルジの分だけ固有船体の幅を増して建造することになったのです。
これが現在の通説です。
ですが、この時点で後の「朝潮型」のような艦容で建造計画が進んでいた可能性があります。
1933年(昭和8年)2月の引かれたという「有明」の図面が学研「歴史群像・太平洋戦史シリーズ19巻 陽炎型駆逐艦」に掲載されています。
この図面では四連装発射管2基に連装砲塔3基となっており、兵装の配置は「朝潮型」と同じです。
この図面の意図するところは、四連装発射管の実用化が見込まれたため、「初春型」での発射管の無理な配置を止めることができ、浮いた重量で砲兵装を「吹雪型」と同じ6門に強化する、というものではないでしょうか。
もちろん「初春型」の3番連管とその予備魚雷のスペースが空きますから、無理なく2番砲を配置できます。
四連装発射管については、丸スペシャル・白露型の阿部安雄氏の解説に若干触れられていますが、計画時期や経緯についての詳細は残念ながら不明です。

念のため艦艇類別等級別表の改正記録を追うと、1932年(昭和7年)12月10日に「初霜」「有明」「夕暮」の3隻が「初春型」に追加されていたのが、1933年(昭和8年)12月15日に「初春型」から「有明」「夕暮」が削られ、新たに「有明型」が設けられて「有明」「夕暮」「白露」「時雨」「村雨」が分類されています。
一応辻褄は合います。
これを裏付けるように、神戸駐在海軍監督官として1934年(昭和9年)6月まで勤務し「有明」建造の監督に当たっていた庭田造船大佐は、「有明」建造中の兵装の変遷について次のように回想しています。

「主砲は艦首甲板上にあった単装12.7cmA型砲塔1基を移動し、三年式連装12.7cmB型砲塔2基の内1基だけを残し、これを後甲板に背負式としたが、さらに改めて上甲板におろした。
発射管は九〇式3連発射管3基中後部のデッキハウス上にあったものを撤去し、他の3連式とも九二式四連発射管2型2基とした。即ち61cm9門を8門にへらし、重量軽減と重心点を降下せしめた」

この庭田回想は実に悩ましい記述で読む者に混乱を惹起するのですが、主砲の方はともかくとして、発射管の推移については1933年(昭和8年)2月の図面を使って「有明」を建造していたことを表わしていると言えます。
問題は主砲の方で、途中で連装3基6門にしたとも徹頭徹尾連装単装混載5門であったとも取れます。
ただ一度は後部主砲群を背負式配置にしたことは読みとることができます。

悩ましいついでにもう一箇所挙げましょう。
有明」「夕暮」は「初春」の異常傾斜事件を受けて線図を変えて建造し直したとされています。
建造途中に線図を変えたために線図がいびつになったという後日談までついています。
ですが件の庭田回想では、1933年(昭和8年)10月30日に艦政本部より船体幅を広げられるか調査をせよと命令が来たが「有明」は船体幅を広げるには既に工事が進みすぎていたので検討の結果11月14日バルジ装着することに決した、と書いているのです。
しかも後の友鶴事件対策でバルジが不要になった際には、このバルジを外して進水させたとも書いています。
この記述が正しいとすると、「有明」は「若葉」「初霜」と同様、バルジ装着による対処で済ましていた可能性があります。
夕暮」については資料はありません。
公式図面を見れば謎が解けるのかも知れませんが、私はこの類の図面がどこにあるのか知らないので確かめる術がありません。
他の有識者の方々の研究を待ちましょう。

さて、1934年(昭和9年)3月12日に友鶴事件が発生し、4月8日に臨時艦艇性能調査委員会が設けられ、海軍艦艇の安定性能やその改善策の検討が始められます。
初春」「子日」は同年5月10日から7月20日までの日程で復原性能改善工事を受けていますので、「初春型」については遅くとも5月10日には改善策が出来ていたことになります。
有明」「夕暮」は進水後この改造後の設計に従って艤装されることになります。
進水したのは「有明」が9月23日、「夕暮」の方が早くて1934年(昭和9年)5月6日、「有明」が9月23日ですが、バルジ分の60cmを船体構造から削って進水したとなると、特に「夕暮」については対策決定から進水までの工事期間がいかにも短いです。
有明」がバルジ装着とすればバルジの取り外しは簡単に済みますので、工期にも無理はなく、庭田回想を信じたくなります。
しかも進水から竣工までの期間は、「有明」で約6ヶ月、「夕暮」は11ヶ月弱もかかっています。
ここで再び線図が改正されたはずですが、この辺で恐らく四連装発射管の設計か製造が間に合わないことがはっきりしたのでしょう、この2隻は三連装発射管2基6門に変更されています。
また主砲については重心降下策と風圧面積抑制のためでしょう、単装砲塔に変更され、配置は後部デッキハウス上ではなくデッキハウス撤去後の後甲板に降ろされています。
つまり「有明」と「夕暮」は「初春型」と全く変わりがなくなってしまったわけです。
唯一の相違点は前述の通り舵の枚数で、「初春型」は1枚でしたが、「有明型」では異常傾斜対策として2枚舵とされたままです。
しかしこの2枚舵はあまり実験をせずに採用を決めたらしく、「有明」「夕暮」完成後に速力が出ない原因とされ、後に1枚舵に変更されてしまっています。
しかも「白露型」の分まで2枚舵が用意されていたことから、準備した分は全て廃棄されて無駄になったそうです。
白露」以後の艦は起工が遅く、四連装発射管の装備に目処がついたのでしょう、砲装は「初春型」と変わりありませんが雷装のみ変更されています。
艦艇類別等級別表の改正記録では、1934年(昭和9年)11月19日に「有明型」が削除されて「有明」「夕暮」が「初春型」に追加、新たに「白露型」が設けられ「白露」「時雨」「村雨」「夕立」「春雨」「五月雨」「海風」が分類されています。

以上が「有明」「夕暮」建造経緯のまとめです。
もちろん資料に対して相当の恣意的解釈が入っており、あくまで私の想像です。

経歴

本型6隻は、「陽炎型」や「夕雲型」などの高性能艦隊型駆逐艦の就役により、太平洋戦争においては、護衛や対潜掃蕩などの比較的地味な作戦に従事することが多かったようです。
特に魚雷射線数の不足がこの冷遇の大きな原因でしょう。
しかしこれらの任務を損害を受けながらも全うし、新型の艦隊型駆逐艦が次々と失われ不足を生じるや、本型は正面作戦に転用されます。
そして前線においても、他の駆逐艦に劣らぬ働きを示しました。
もっとも、本来超高性能艦を目指した本型が他の駆逐艦に劣らぬという書かれ方をするのは、皮肉に過ぎますが。
なお本型は、「初霜」が1945年(昭和20年)7月下旬まで生き残りますが触雷着底し、最終的に全艦戦没という結末を迎えています。

同型艦略歴
初春 昭和 6年 5月14日 佐世保工廠にて起工
昭和 8年 9月30日 佐世保工廠にて竣工
昭和19年11月13日 マニラ湾内にて、空襲によって沈没
子日 昭和 6年12月 5日 浦賀船渠にて起工
昭和 8年 9月30日 浦賀船渠にて竣工
昭和17年 7月 5日 アガッツ島沖にて、米潜の雷撃によって沈没
若葉 昭和 6年12月12日 佐世保工廠にて起工
昭和 9年10月31日 佐世保工廠にて竣工
昭和19年10月24日 スールー海にて、空襲によって沈没
初霜 昭和 8年 1月31日 浦賀船渠にて起工
昭和 9年 9月27日 浦賀船渠にて竣工
昭和20年 7月30日 宮津湾内にて、触雷によって沈没
有明 昭和 8年 1月14日 神戸川崎造船所にて起工
昭和10年 3月25日 神戸川崎造船所にて竣工
昭和18年 7月28日 ツルブ沖にて、空襲によって沈没
夕暮 昭和 8年 4月 9日 舞鶴工作部にて起工
昭和10年 3月30日 舞鶴工作部にて竣工
昭和18年 7月16日 チョイセル島沖にて、空襲によって沈没
1998.01.24初出
1998.01.28改訂
2000.08.16改訂
2002.11.01改訂
2002.11.09改訂
2007.11.13改訂
2008.01.29改訂
艦型一覧
峯風型
神風型
睦月型
吹雪型 (特型)
綾波型 (特2型)
暁型 (特3型)
初春型
白露型
朝潮型
陽炎型
夕雲型
秋月型
島風型
松型
橘型
参考文献一覧
同型艦一覧
初春
子日
若葉
初霜
有明
夕暮
参考文献一覧
索引
   
       
参考文献一覧