初霜 【Hatsushimo】

初春型 4番艦

初春型:「初春」復原性能改善工事後

解説

「初霜」は「初春型」の4番艦として建造されました。
しかし「初春型」1番艦である「初春」は公試の結果、復原性能が不足と判定され、既に着工済みだった「初霜」は3番艦「若葉」とともにバルジの装着による復原性能の改善工事が施されました。
更に有名な「友鶴事件」が発生すると、本型はより徹底的な復原性能改善工事を受けるはめになり、「初霜」は進水後にこの改善工事を受けています。
更にもう一度、「第四艦隊事件」が生起すると、今度は船体強度改善工事を受けなくてはなりませんでした。
度重なる改造工事の結果、「初霜」は頑健な船体を獲得することはできましたが、その代償として性能が計画時より著しく劣ることになってしまいました。
各改善工事の詳細は「初春型」を参照して下さい。

さて「初霜」は、竣工後直ちに第二十一駆逐隊に編入されます。
同駆逐隊は「初春」「子日」「若葉」そして「初霜」の4隻より編成され、在籍のまま開戦を迎えます。
二十一駆は第一水雷戦隊に属していました。
開戦劈頭、長駆ハワイを空襲した南雲機動部隊の直衛についたのもこの一水戦ですが、「初霜」たち二十一駆は柱島の主力艦部隊の護衛として内海にありました。
既により新型の艦隊型駆逐艦が艦隊に編入され、旧式の部類に入りつつあった「初霜」たちは、その航続距離の短さゆえに機動部隊直衛任務に漏れてしまったのです。
開戦後もしばらく内海に止まっていた「初霜」たち二十一駆ですが、昭和17年1月中旬、第101燃料廠の輸送船団をダバオへ送り届けることになり、やっと最前線である南方へと出撃する機会を得ます。
船団護衛を終えた後、二十一駆は蘭印部隊に編入されます。
折しも蘭印方面への攻勢が活発化していた時期であり、南方の諸部隊は輸送船団の護衛艦不足を訴えていました。
そこへちょうど来たのが二十一駆の4隻だったわけです。

蘭印部隊へ編入された二十一駆は、さっそくケンダリー攻略作戦に投入されます。
ここでは第一根拠地隊旗艦として参加していた軽巡「長良」が、僚艦「初春」と接触事故を起こしてしまいます。
2隻は直ちに後退して修理することになり「長良」座乗の一根司令は「初霜」に移乗、「初霜」が旗艦任務を一時的に継承するというエピソードがありました。

次いでマカッサル、バリと、蘭印東部の要衝を攻略していきます。
バリ攻略作戦ではバリ海峡を哨戒中に武装商船を発見、「若葉」と協同でこれを砲撃、撃沈する戦果を挙げています。
このバリ島攻略を最後に「初霜」は蘭印部隊の指揮下を離れ、3月下旬に内地に戻ります。
内地で修理・整備を終えると、5月からは砲術学校と潜水学校の教練任務に従事することになりました。

5月下旬、「初霜」たちは慌ただしく出撃準備を始めました。
連合艦隊主力のミッドウェイ攻略に連動してアリューシャン諸島を攻略する作戦に参加するためです。
5月20日づけで北方部隊に編入された「初霜」は、AQ(アッツ島)攻略部隊の一員となります。
彼女の任務は、特設敷設艦「まがね丸」と組んでアダック島付近に機雷を敷設することでした。

アリューシャン方面の作戦は6月3日の「龍驤」「隼鷹」によるダッチハーバー空襲に始まり、順調な滑り出しを見せます。
ところが5日、主作戦のミッドウェイにおいて空母3隻を失うという悲報が飛び込んできたのです。
更に南雲機動部隊に残った最後の空母「飛龍」が沈没、この結果ミッドウェイ作戦は中止されてしまいました。
味方機動部隊の思わぬ敗北に動揺しつつ、北方部隊は連合艦隊に対しアリューシャン作戦続行の可否を問い質します。
連合艦隊からの指示は、アリューシャン作戦を続行せよ、というものでした。
この回答を受けた北方部隊は、一時延期した攻略作戦を若干縮小の上再興、再び舳先をアリューシャンに向けたのです。

「初霜」は6日、当初の予定を変更され、「まがね丸」と分離、単艦アッツ島へと向かいます。
8日、「初霜」はアッツ島にてAQ攻略部隊本隊と合流しますが、その時には既にアッツ島への上陸は完了していました。
アッツ、キスカ両島の占領を確認した北方部隊は、直ちに警戒行動に移ります。
これに対する米軍の立ち上がりは早く、特に北米大陸側に近いキスカ島へは、12日から連日爆撃が開始されるという状況でした。
「初霜」たち二十一駆はこの対処としてキスカ部隊へ増援され、以後キスカ島の警戒任務に就くことになります。
この任務は7月10日まで継続され、大湊出撃以来1ヶ月以上の長きにわたったアリューシャン方面での行動はようやく終わりを告げました。
一方米軍の反撃は執拗で、重爆、飛行艇による空襲に加え、更に潜水艦の投入を開始します。
日本側は7月5日、キスカ港外にて米潜「グロウラー」によって十八駆の「」が撃沈、「不知火」「」が大破、アガッツ沖においては米潜「トライトン」により「初霜」と同じ二十一駆の僚艦「子日」が撃沈されるという、極めて重大な損害を負っています。

横須賀に戻って長期行動の疲れを癒した「初霜」は8月、重巡「那智」と共に再び北方、幌筵へと赴きます。
そこへ7日、ソロモン諸島ガダルカナル島への米軍上陸の報がもたらされます。
同時にアリューシャン方面へも米軍反攻の情報があったため、北方部隊へ警戒が呼びかけられます。
更に12日、今度は本土東方海面において、米水上偵察機が不時着しているのが発見されます。
この報に対し、本土方面に展開する海軍部隊は、緊急の索敵行動に駆り出されました。
米水偵の存在は、米艦隊の存在を示唆していたからです。
幌筵にあった「初霜」も北方部隊の諸艦と共に緊急出港、一路南下して索敵を行います。
ですが何も発見することが出来ず、北方部隊は大湊に帰還します。
結局米水偵発見は誤報だったらしく、海軍は連合軍のガ島反攻の初期対応の大事な時期に振り回される結果となったのです。

9月2日幌筵へ戻った「初霜」は、「若葉」と共にすぐさまアッツ島への進出を命じられます。
アリューシャン方面ではアッツ島の放棄が決定、同島の守備隊をキスカ島へ移動させる作戦が始まっていて、彼女たちはその警戒のために選ばれたのです。
しかし12日、アリューシャン方面に米巡洋艦隊が発見され、北方部隊は一気に緊迫した雰囲気に押し包まれます。
彼女たちは米艦隊邀撃のために北方部隊の主隊に合同しましたが、その後米巡については何の音沙汰もなく、再び艦隊と分離してアッツ島へと向かいました。
アッツ島へ到着した「初霜」「若葉」は、米爆撃機の妨害を受けつつも輸送船と協力して北海支隊のキスカ移駐作戦を完了したのです。

「初霜」が再び北千島に進出するのは10月下旬のことです。
それまでのアリューシャン情勢は、キスカ守備隊の増強と越冬装備の輸送作戦に終始していました。
南方でもガ島輸送をめぐる凄惨な戦いが続いていましたが、このキスカ方面でも程度の差こそあれ、日本艦隊の輸送作戦と米軍航空隊の輸送妨害という構図は変わりがなかったのです。
日本艦船の損害も多く、10月17日には「」と共にキスカへの弾薬輸送に従事していた二十一駆の僚艦「初春」は米軍機の空襲を受け「」は撃沈されてしまい「初春」も中破、幌筵に向けて単独退避中の20日、今度は波浪でスクリュー軸を叩き折られ航行不能に陥ってしまいます。
「初霜」「若葉」はこの姉妹艦「初春」救援のために出港、幌筵まで曳航して帰ってきています。

このような例に代表される米航空隊の活動に、守勢一辺倒に追い込まれていた日本軍は、飛行場整備の必要性を強く感じ、10月下旬にそれまでの縮小方針を一変します。
即ち、一度放棄していたアッツ島を再占領、またセミチ島を新たに占領して、キスカ、セミチ両島に飛行場を整備する計画を決定したのです。
計画は直ちに実行に移され、千島要塞からの陸軍部隊をアッツ島へ輸送することになりました。
「初霜」は警戒隊に編入され、26日幌筵を出撃しますが、折からの荒天により乗組員が流されるという事故に見舞われてしまいます。
この捜索のために1日延期されはしたものの、アッツ島再占領作戦は決行され、29日に部隊揚陸に成功します。
更に「初霜」は「若葉」「薄雲」と共に急いでキスカへ赴き、新たに編成された陸軍北海守備隊の司令部を同島に送り届けます。
そして占守に戻った「初霜」は、この後に計画されているセミチ攻略作戦に備えて待機したのです。

しかしアッツ再占領の立案から着手まで迅速に行われ、今また輸送船による本格的な増援を送らんとする日本側の策動の前に立ちはだかったのは、またもや米航空隊でした。
アッツ、キスカに対する米軍機の爆撃は衰えることを知らず、日本側の貴重な輸送船をしばしば撃破していました。
この脅威のために、「初霜」も加わって一度は出撃したセミチ攻略部隊や、その他のアッツ、キスカ増援部隊は日程延期を余儀なくされます。
飛行場のない日本の唯一の対抗策は水上戦闘機隊の派遣でしたが、いかんせん損耗率が高い上に生産数が少なく、補給は思うに任せませんでした。
残念ながら二式水上戦闘機の都合がつくまで、輸送船を用いた輸送計画は12月2日をもって延期となってしまったのです。

アッツ、キスカ両島に対して占領時より水上機を送り続けていたのは、特設水上機母艦「君川丸」でした。
横須賀で二式水戦7機を受領した「君川丸」は、早速これをアッツ島へ送り届けることになります。
「初霜」はこの「君川丸」を護衛することになり、彼女たちは12月16日横須賀を出港、占守を経由して25日にアッツ島へ送り届けることに成功しました。
この二式水戦隊は翌日直ちにキスカ島へ進出、この航空部隊により輸送作戦は再開される目処がついたのです。
「初霜」は「君川丸」護衛任務を果たした後、佐世保に戻り、ドック入りすることになりました。

佐世保で整備・休養を終えた「初霜」は昭和18年の2月、北方へ帰ってきました。
南方ではガ島撤収作戦が遂行されていた時期です。
その間も「君川丸」による水上戦闘機隊の補給は繰り返されており、厳しい戦いを強いられているキスカの水上戦闘機隊も、何とか存続することを許されていました。
その奮闘の下、アッツ、キスカ両島に対する北方部隊の補給作戦は、時々空襲による損害を受けつつも辛うじて継続されていました。
ところが2月20日、アッツ島西方に米巡洋艦隊が出現し、日本の輸送船を撃沈するという事件が発生します。
航空隊の他に水上艦艇という脅威を迎えた北方部隊は、補給線の維持のため、これまでの五月雨式の輸送から集団方式による輸送に切り替えることにしました。
北方部隊の全力をもって輸送船団を護衛しようというのです。
「初霜」もまたこの護衛部隊に組み入れられ、米艦隊との会敵に備えます。

まず、3月7日から行われた輸送船3隻の護衛は無事に終わりました。
同様の方式で3月23日にも再度、3隻の輸送船による作戦が試みられます。
荒天に遭遇したために到着予定が予定の25日から27日にずれ込んだのですが、それでも無事に到着できるかと思った矢先の26日3時過ぎ、敵艦隊が姿を現したのです。
後方より迫り来る米艦隊は、重巡「ソルトレークシティ」軽巡「リッチモンド」駆逐艦4の艦隊でした。
米艦隊は日本艦隊の後方にあった輸送船を発見、追撃してきたのです。
北方部隊は、米艦隊の姿を味方別働隊と混同していたため識別に時間をかけてしまいましたが、敵の全容を確認するや反転、「」の護衛の下に輸送船を逃がしつつ、輸送船と米艦隊の間に割って入るように機動します。
北方部隊は第五艦隊司令長官細萱中将直率、旗艦重巡「那智」「摩耶」、軽巡「多摩」、一水戦旗艦軽巡「阿武隈」、駆逐艦「若葉」「」、そして「初霜」という陣容で、米艦隊に対してかなり優勢でした。
そして向かってくる米艦隊に対して反航体勢をとると、「那智」「摩耶」が3時42分から砲撃戦を開始します。アッツ島沖海戦が開始されたのです。

アッツ島沖海戦は、兵力的に日本側が優勢だったにも拘わらず勝利を収められなかった戦いとして、当時から鋭い批判の対象となっています。
その当事者の一人であった「初霜」はどのように戦ったのでしょう。
立ち上がり、「初霜」は「若葉」と共に重巡「那智」「摩耶」に追従していましたが、戦闘になると彼女たちの後ろにいた一水戦旗艦「阿武隈」の指揮下に移ることになりました。
「初霜」たちはやっとのことで「阿武隈」の後ろにつき、米艦隊に対峙しようとしたのですが、しかしこの運動の間に劣勢を悟った米艦隊は反転、逃亡を開始していたのです。
ただでさえ初動の遅れた一水戦は、4時30分過ぎから今度は「阿武隈」への砲火集中によって回避運動を余儀なくされます。
更に「阿武隈」が放った4本の魚雷は、調整ミスにより一水戦の予定コースを突き進んでしまい、自らの放った魚雷を回避せざるを得ないという失態を重ねたのです。
だめ押しに、なぜか「阿武隈」が最大速力を発揮しようとしないことも一水戦にとっては著しく不利に働き、これらの原因によって、一水戦は終始重巡戦隊の後方についてしまう形になってしまいました。
一方、「那智」「摩耶」の1時間にわたる射撃もほとんど命中しませんでしたが、辛うじて「ソルトレークシティ」に有効打を浴びせることに成功します。
この打撃により6時30分頃、「ソルトレークシティー」は速力が低下、米駆は煙幕を展張し、傷ついた「ソルトレークシティ」を懸命に覆い隠します。
ようやく好機が訪れた一水戦は、増速して距離を詰めると砲撃、次いで雷撃を開始します。
若葉」は5本、「初霜」は6本を放ったのですが、しかしこれは15000~19000メートルという遠距離からの発射であり、およそ命中を期し難い発射でした。
この全く俊敏さに欠けた一水戦の襲撃行動に対し、米駆逐隊は目覚ましい働きを見せます。
一度修理に成功した「ソルトレークシティー」は、6時50分に再び故障に見舞われ、一時漂流するという危機を迎えたのですが、彼女に付き従う米駆は「那智」「摩耶」の集中砲火を浴びながらも突撃を敢行、魚雷攻撃を行って日本艦隊をして回避運動を強要せしめ、時間稼ぎに成功したのです。
この米駆の必死の反撃により日本艦隊は米艦隊の戦力が健在と誤判断してしまい、また米軍機の来襲を警戒して戦闘を中止、遂に米艦隊を逃すという結末を迎えます。
何より北方部隊はこの海戦の後輸送作戦を中断してしまい、増援阻止という米軍の目的は達成されてしまったのです。

このアッツ島沖海戦での日本艦隊の拙戦ぶりは海軍から問題視され、細萱中将は更迭されてしまうことになります。
一水戦の行動も戦意不足と激しく糾弾され、戦後も米駆の奮闘ぶりが明らかになると、より一層非難の的となったのです。
「初霜」にとっては、非常に苦い戦闘となってしまいました。

アッツ島沖海戦の後、「初霜」は横須賀において5月初旬まで修理と整備を行います。
「初霜」が再び舳先を北へ向けるのは5月11日のことでした。
ところがその翌日の12日、アッツ島に対して米軍が上陸を敢行したのです。
北方部隊は直ちに反撃を企図しますが、いかんせん指揮下の艦艇は「初霜」を含めて広範囲に散らばっており、中にはドックで修理中の艦すらある状態でした。
そのため、北方部隊の出した北千島への集結命令の早期実現は困難だったのです。
連合艦隊もアッツ島への米軍上陸に対して反応を見せますが、こちらも主戦線であるソロモン、ニューギニア方面に戦力が集中しており、迅速な増援は不可能でした。
先に幌筵に到着し、僚艦の到着を待つ「初霜」は無為に時間を過ごす結果となり、その間にもアッツ島の陸上戦闘は日本側に不利に推移していきます。

ようやく艦隊が集結を終わった25日、アッツ島を包囲する米艦隊への奇襲とアッツ島への弾薬の強行輸送のため、北方部隊の全力出撃が行われます。
「初霜」は「若葉」と共に強行輸送部隊の掩護任務を命じられていました。
しかしこの時点でアッツ島の陸戦の情勢はかなり絶望視されており、アッツ島の放棄も決定していました。
そして29日、アッツ島守備隊からの訣別電を受信するに至り幌筵への帰投が決定、北方部隊水上艦艇による掩護作戦は全く成果を見ないまま終了することになったのです。
アッツ島守備隊の玉砕は、以後太平洋戦争において次々と繰り返される離島玉砕の最初の例でした。
なお、アッツ島玉砕に関わる海軍の行動が陸軍には全般的に緩慢に映ったため、陸軍内においては海軍に対して非常に不満が高まったと言われています。

アッツ島が陥落したことにより、キスカ島は米軍勢力圏内に完全に取り残された形になりました。
当然、キスカ島守備隊の撤収が陸海軍共通の懸案事項となり、5月末には早くも北方部隊に対してキスカ撤収作戦の指示が下っています。
キスカ撤収作戦は「ケ」号作戦と呼称されることになり、当初は潜水艦による撤収が試みられました。
しかし米軍の妨害は激しく、6月末に断念せざるを得ない状況に追い込まれます。
北方部隊は潜水艦ではなく、水上艦艇による撤収の可能性を探り始めたのです。

水上艦艇による撤収の計画立案は6月中旬より始められます。
ところでこれに先立ち第一水雷戦隊の森司令官が病気により交代し、新たに木村昌福少将が一水戦の指揮を執ることになりました。
木村司令官は就任早々、5艦隊長官河瀬中将からキスカ撤収作戦の検討を命じられることになったのです。
一水戦司令部は、撤収作戦実行に当たって駆逐艦戦力の増強を願い出ます。
これにより一水戦は、5月10日に竣工したばかりの新型駆逐艦「島風」や、第十駆逐隊など計7隻の増援を得ることに成功します。
「初霜」たち二十一駆は、警戒隊として参加することになりました。
6月中はキスカ島周辺は濃霧が立ちこめ、激しかった空襲もやや下火になっていたので、成算はあると考えられていたようです。

「阿武隈」を旗艦とする一水戦は、7月7日幌筵を出撃します。
一水戦は濃霧を宛てにした計画を立てていました。
北洋特有の濃い霧に紛れて隠密裡にキスカ島に入港しようというものです。
ところがちょうどその日、しばらく鳴りをひそめていた米艦隊がキスカ島に現れ、艦砲射撃を開始したのです。
一水戦はこの報告に対する特段の反応は見せず、計画通り11日の突入を目指します。
しかし11日以降、霧が出ないという天気予報が連日続き、またキスカ周辺の米哨戒艦艇の配置状況から、15日には突入中止を決断したのです。

さて幌筵に戻った一水戦は、海軍全体からの批判にさらされてしまいます。
この空気を受けて、一水戦は直ちに第二次作戦の計画に入ります。
7月22日、一水戦は再び幌筵を出撃。
しかし第一次の行程と異なり今回は濃霧に祟られてしまいます。
視界がほとんどない中を航行する日が続き、「日本丸」「木曾」「長波」「国後」などが次々と隊列からはぐれてしまったのです。
「国後」以外は何とか収容することが出来ましたが、26日、その「国後」が一水戦に合流したときに事故が発生します。
「日本丸」を戦闘に単縦陣で進んでいた一水戦ですが、右側からいきなり「国後」が現れたのです。
「国後」は隊列に突っ込む形になり「阿武隈」と衝突、これをきっかけにして隊列は大混乱に陥り、「初霜」もその混乱の中で怪我を負う羽目になってしまいました。
隊列の後方にあった「初霜」は「若葉」の右舷に衝突し、慌てたのか後進をかけると今度は後続の「長波」の左舷にぶつけてしまったのです。
この三重衝突事故のおかげで、「若葉」は最大速力が14ノットに落ちてしまい、作戦続行が不可能と見なされて単艦帰投することになってしまいました。
その他の艦は作戦続行となりましたが、浸水の度合いの大きかった「初霜」は警戒隊任務を解かれ、「日本丸」の護衛任務に就くことになりました。

28日、キスカ突入が命じられ、「初霜」たち補給隊は収容部隊と分離します。
後は無事に撤収が成功するのを祈るのみでした。
しかして翌29日、一水戦はキスカ突入に成功し、陸海軍合計約5000名の将兵を満載した各艦は高速で幌筵に戻ったのです。
この成功は「奇跡のキスカ撤退」ともてはやされ、事実キスカ周辺を警戒していた米軍の大艦隊と連日の爆撃を鑑みるに、決して大げさな表現ではないことがわかります。
更に後日、米軍が日本軍のキスカ撤退を上陸してみるまでつかめなかったというエピソードが、この作戦に花を添えることになったのです。

「初霜」は衝突の際に生じた損傷復旧のため、昭和18年10月1日まで横須賀に入渠します。
北方戦線が千島まで縮小されたことに伴い8月5日、北方部隊は解散、新たに北東方面艦隊が編成されることになり、「初霜」たち一水戦はここに編入されます。
編制上はそうなっていましたが、キスカ撤収後の千島方面での活動は全般的に不活発で、出渠した「初霜」は南方で護衛任務に従事することになります。
シンガポールやトラックの間を往復する改装空母の護衛に、差し当たり手の空いた二十一駆「初霜」「初春」が充当されたわけです。
さて、12月22日には第二航空戦隊の「飛鷹」「龍鳳」をトラックに護送しますが、これは戊号作戦と呼ばれる陸軍輸送作戦の護衛のためでした。
ソロモン諸島をめぐる攻防戦は10月に中部ソロモンを放棄、11月には北部ソロモンに舞台を移していました。
ラバウルを拠点とする航空部隊は度重なる消耗戦の結果全くやせ細ってしまっていたため、連合艦隊は11月以降しばしば空母機を陸上基地へ増援に出していたのです。
今回トラックに進出した二航戦も、必要とされたのは母艦機動部隊としての機動能力ではなく、その搭載機だけでした。

明けて昭和19年1月、「初霜」「初春」は「瑞鳳」「雲鷹」を護衛してトラックを出港、横須賀に向かいます。
ところがサイパンの手前で米潜の張った網に捉えられてしまい、「雲鷹」が米潜「ハドック」の雷撃を受けてしまいます。
この頃はもはや、最新型の電子兵装を装備した米潜水艦に対し、日本駆逐艦は手も足も出ないような状態に追い込まれていたのです。
それでも「初霜」は「瑞鳳」や「初春」と別れ、速度の落ちた「雲鷹」をサイパンまで護ります。
米潜は執拗に損傷した「雲鷹」にとどめを刺す機会をうかがい、それはサイパンに到着してからも同様でした。
そして「雲鷹」が応急修理をする間サイパン港外で対潜哨戒をやり続け、応急修理成った「雲鷹」が横須賀に回航される時も終始、彼女を護り続けたのです。

こんな護衛任務を続けた「初霜」は、昭和19年の4月末から佐世保で修理を受けます。
5月に入ると、連合艦隊は米機動部隊との決戦近しと見て、その主兵力をタウイタウイ泊地へ集中し始めます。
それに伴い、艦隊随伴用のタンカーも集結させるように命じます。
整備の終わった「初霜」は、進出する給油艦「速吸」を護衛することになり、6月11日にダバオに到着します。
ところが同日からマリアナ諸島に対する空襲が開始され、15日にはサイパン島への上陸が開始されたのです。
同日、連合艦隊は「あ」号作戦の発動を命令、小沢機動部隊はタウイタウイを出動し、決戦を求めて東進を開始しました。
タンカー部隊もまた、その大部分が14日にダバオを出港しますが、「初霜」の護る「速吸」は遅れて16日ダバオを出撃、18日朝に補給部隊に合同します。
補給部隊はタンカー「日栄丸」「国洋丸」「清洋丸」「玄洋丸」「あづさ丸」「速吸」から成り、それを「雪風」「」「卯月」、そして「初霜」が護っていました。
後に駆逐艦「夕凪」を護衛に加えた補給部隊は、小沢機動部隊の後方に待機、戦機をうかがったのです。

小沢機動部隊は慎重な索敵を繰り返し、19日、理想的な距離から総数300機を超える大攻撃隊を送り込みます。
ところがその大編隊も米機動部隊の巧みな迎撃に遭遇し、その75%を失うという、とてつもない被害を被ってしまったのです。
ですが小沢司令部では残存兵力を把握しきれず、なお決戦継続の意志を揺るがせませんでした。
翌20日、「初霜」たちの護る補給部隊は機動部隊に合同、決戦に備えて艦隊に重油を補給します。
「初霜」はその時初めて機動部隊の姿を見たのですが、既に主力空母である「大鳳」「翔鶴」の艦影はその中にはなく、小沢司令長官の将旗は重巡「妙高」にありました。

補給を終えた小沢機動部隊は米機動部隊の所在を探し求めますが、やがて米機動部隊が急速追撃していることが判明します。
ことここに至って機動部隊は反転を決意、15時20分には補給部隊にも西方への退避命令が出ました。
ですが時既に遅く、同日夕刻、日本艦隊は米空母機の捕捉するところとなってしまいます。
来襲した約200機の米攻撃隊は、小沢機動部隊の手元に残ったわずかな戦闘機隊の妨害を受けつつも順次攻撃を開始し、補給部隊も35機程度が攻撃をかけてきました。
この敵に対して、「初霜」たち護衛駆逐艦は対空戦闘を開始します。
しかし足の遅いタンカーは攻撃を回避しきれず、「清洋丸」「玄洋丸」が航行不能に陥ってしまいました。
米機動部隊の追跡を逃れるため、補給部隊は仕方なく2隻を処分します。
小沢長官はなおも夜戦による逆襲の構えを見せましたが、同日夜連合艦隊は作戦中止を決定、機動部隊は中城湾へ、補給部隊はギマラスへと落ちのびることになったのです。
なお「初霜」は、20日に小沢長官が遊撃部隊(第二艦隊)に命じた夜戦命令と同時に、夜戦を敢行する遊撃部隊へ一時編入されたらしいのですが、詳細は不明です。
ですが遊撃部隊はその後中城湾に退避しているのに対し、「初霜」は補給部隊の退避先と同じギマラスへ入港していることから、実際に合同してはいないようです。
このマリアナ沖海戦の結果、日本機動部隊はその航空戦力のほぼ全てを失い、この後二度と再起することは出来なかったのです。

マリアナの失陥によって、絶対国防圏に大穴を穿たれた形になった日本軍は、その後の防衛戦略に混乱を来しました。
フィリピンから千島までの南北に長い戦線のどこに米機動部隊が攻め込むか分からなかったのです。
そんな中「初霜」たちは本土と台湾、フィリピンの間で輸送船団の護衛任務に就きます。
しかしこの護衛艦暮らしも長くはなく、8月には千島から呉に南下してきた古巣の第五艦隊に合流することになりました。
志摩中将率いる第五艦隊の南下は、訓練用燃料の不足が原因で第二艦隊がリンガ方面に進出したことにより空母護衛部隊がいなくなった穴を埋めるための処置です。
8月から9月いっぱいまで、第五艦隊は第二遊撃部隊として航空戦隊と共に訓練を繰り返します。

10月に入ると、いよいよ米機動部隊が活動を開始しました。
米軍は次の目標をフィリピンに定め、その事前制圧のために米機動部隊が沖縄や台湾などを空襲し始めたのです。
10月10日は南西諸島、11日はフィリピン北部、そして12日は台湾へその矛先が向けられました。
これに対し日本海軍は投入可能な実戦部隊をほとんど根こそぎ投入し、米機動部隊の撃滅をはかります。
この結果生起したのが、10月12日から16日にかけて戦われた台湾沖航空戦です。

そして14日、呉に在泊していた第二遊撃部隊に対して出撃命令が下ります。
台湾沖航空戦によって大打撃を与えた米機動部隊損傷艦の追撃が目的でした。
しかし「若葉」「初春」「初霜」の二十一駆各艦は、ちょうど呉で機銃増備などの工事中でした。
急いで工事を打ち切り出撃準備に入ったものの、翌15日午前零時の第二遊撃部隊出撃には遂に間に合わず、3時間以上遅れて本隊の後ろを追跡することになってしまいました。
更に、本隊を追跡しているとは言え当の本隊は無線封止中なので、目的地が台湾東方ということしかわからず、二十一駆はほとんど迷子の様相を呈してしまいます。
その日の午後、奄美大島南東まで進出していた「初霜」たちは、敵空母機に接触を受けます。
事前の情報によれば米機動部隊は壊滅的打撃を負ったはずだったのですが、実際に空母機が飛んでいることに疑念を抱いた二十一駆は、第二遊撃部隊司令部の指示を待たずに反転、北上を開始します。
第二遊撃部隊司令部も同様の判断をしており、主力も上級司令部の指示を待たずに独自の判断で北上していました。
若葉」と「初霜」は、偶然洋上で本隊と合同を果たし、17日、そろって奄美大島の薩川湾に投錨します。

実は、米機動部隊は第二遊撃部隊の動向を正確につかんでおり、台湾沖航空戦で損傷した艦艇を囮に使っておびき寄せ、一気に撃滅する計画を立てていました。
日本軍が数百機の損害と引き替えに得た戦果は、巡洋艦2隻の大破という些少なものが実態だったのです。
米空母の全てが作戦可能状態であり、第二遊撃部隊程度の戦力ではとても歯が立たないところでした。
しかし日本は19日、撃沈空母11隻を始めとする誇張されきった未曾有の大戦果を宣伝し、陸軍もそれを信じてしまったため、この戦果の大誤認はこの後一水戦をもう一度振り回すことになります。

虎口を脱した志摩中将の第二遊撃部隊は、台湾の馬公へ回航されます。
去る10月17日、レイテ島スルアン見張所から米軍の上陸を伝える緊急電が全海軍に響き渡っていました。
米軍がフィリピンへの上陸作戦を開始したのです。
日本海軍はこれに対し、18日に捷号作戦を発動、栗田中将率いる第一遊撃部隊と小沢中将麾下の機動部隊に対し、出撃命令を下しました。
ところが第二遊撃部隊の処遇は特に触れられていません。
連合艦隊は重巡2隻基幹という中途半端な戦力しか持たない第二遊撃部隊の使い道を考えあぐねていたのです。
考えあぐねた果てに、三川中将の南西方面艦隊に預けてしまうという処置をやってのけたのです。
この辺の連合艦隊の朝令暮改ぶりと、志摩中将の各上級司令部に対する意見具申の電報の嵐は、そのやりとりを見ているだけで面白いのですが、結果的には21日昼、志摩中将の決断でレイテ突入が決定されたのです。
しかしそれに先立つ20日夜、二十一駆は突然マニラへの高速輸送を命じられます。
米軍のレイテ上陸に呼応した、高雄からセブ島への第二航空艦隊の地上機材の緊急輸送でした。
二十一駆はこの重要な時期に本隊と別行動をとることに非常な不満を抱いたようですが、結局21日昼、高雄に向けて馬公を出港することになりました。

セブ島への輸送は途中で目的地が変更され、要員、機材はマニラに送り届けることになりました。
高雄からマニラに向かう途中、バシー海峡で撃沈された商船の遭難者を発見し収容作業に時間を割いた二十一駆は、23日にマニラに到着します。
そこには志摩中将からの命令書が届いていました。
命令書には、第二遊撃部隊の南下と、24日午前にコロン湾沖で合同する旨が記されていたのです。
二十一駆は物件揚陸を急ぐと、23日夜、直ちにマニラを出発、コロン湾に向けて高速で南下を始めました。

翌24日8時、「初霜」たち二十一駆はスールー海に踏み込みました。
このまま行けば夕刻には本隊に合同できる予定です。
しかしその頭上には既に米空母機が迫っていたのです。
8時10分、遂に米空母機は急降下爆撃を加えてきました。
まず司令駆逐艦「若葉」が集中攻撃を受け、9時頃に「若葉」は沈没してしまいます。
残る「初霜」「初春」は救助活動を始めますが、その2隻にも敵機は攻撃をかけてきます。
苦労した救助活動も12時頃にようやく終わり、「初霜」「初春」が南下を再開しようとした矢先、雲間から急降下爆撃機が飛び出したのです。
艦爆の投下した爆弾は大部分が至近弾となりましたが、1発が「初霜」の2番砲塔付近に命中してしまいました。
「初霜」は直ちに弾火薬庫に注水、事なきを得ましたが、これによって2番砲は使用不能になってしまいます。
この空襲の結果、二十一駆司令は第二遊撃部隊への合同を断念、「初霜」たちはマニラに引き返すことになったのです。

「初霜」たち2隻は25日、マニラに戻りますが、マニラまでの帰り道は米空母機に襲われることはありませんでした。
それもそのはず、米機動部隊は24日、一日中栗田艦隊を叩き続けていたのです。
マニラで「若葉」の生存者を上陸させると、25日9時に「初霜」「初春」は再びマニラを出港します。
コロン湾まで出向き、志摩中将の本隊に合流する目的でした。
この志摩艦隊ですが、本来ならこの時間にはレイテ突入を果たし、敵輸送船団撃滅という目的の達成如何に関わらず、全滅あるいはそれに近い損害を出しているはずでした。
しかし第二遊撃部隊の旗艦重巡「那智」は、4時半頃、レイテ突入を断念する旨を発信していました。
恐らくこれを受けての行動でしょう、「初霜」「初春」はコロン湾に出向き、26日、第二遊撃部隊と合同することが出来ました。

捷号作戦は、究極目的である栗田艦隊によるレイテ上陸船団の殲滅が果たせなかったため、損害を重ねただけに終わってしまいました。
日本海軍は戦艦「武蔵」を筆頭に多数の艦艇を喪失し、近代海軍としての体をなさないまでに叩きのめされました。
もはや日本海軍には、米軍を相手に戦う艦隊戦力は残されていなかったのです。
しかし先の台湾沖航空戦の誇大戦果を信じたまま訂正されていない陸軍は、レイテ島に上陸した米軍は敗残軍との見解を変えず、規定方針であったルソン島における決戦をレイテ決戦に変更してしまいます。
レイテ島には寡少な兵力しか配置していなかったため、陸軍は海軍に対し、レイテへの陸兵輸送を依頼してきたのです。
当初は歩兵2個大隊の移動でした。
ここに比島沖海戦における撃沈空母8隻を始めとする幻の大戦果が宣伝されたのです。
陸軍指導部は舞い上がり、第一師団、第二十六師団の2個師団の輸送を決定してしまったのです。
海軍も断りきれず、ここに陸海軍合同のレイテ島増援作戦、多号作戦が開始されることとなったのです。

輸送作戦と言えば引っぱり出されるのが駆逐艦部隊でした。
栗田艦隊の二水戦、十戦隊、志摩艦隊の一水戦所属の駆逐艦は、比島沖海戦で散々な目に遭わされたばかりだというのにマニラに集結させられ、順次レイテ島への輸送船団の護衛として同地を後にしたのです。
「初霜」はキャビテ軍港において被爆箇所の修理を済ませると、第二次多号作戦部隊として10月31日にマニラを出撃しました。
この第二次部隊は、第一師団の大部分を輸送艦3、輸送船4に分乗させ、それを一水戦司令官木村少将座乗の「」を旗艦とする「初霜」「初春」「」「」の駆逐艦5、海防艦4が護る船団です。
戦闘機隊の掩護も受けたこの船団は、マニラを出港後ほとんど妨害を受けることなく、11月1日にはレイテ島オルモックに到着することが出来ました。
とは言え米軍も手をこまねいていたわけではなく、揚陸時にはB24が現れ、揚塔作業の妨害をはかります。
護衛の一水戦や海防艦は、盛んに煙幕を吐きつつ船団の周囲を回り、船団を護ろうとしました。
これは効果があり、揚塔中の爆撃にも拘わらず輸送船「能登丸」を失っただけで、人員、軍需物資共に揚塔率90%以上と、ほぼ全ての揚陸に成功したのです。

この「能登丸」の漂流者の救出にはちょっとしたエピソードがあります。
木村少将は、「能登丸」の救助には座乗する旗艦「」自らが当たり、配下の艦艇には先に帰れと命じたのです。
救助活動は艦を長い間停止させなくてはならず、いつ空襲があるかも知れない海域での救助活動は危険でした。それを司令官自らが率先して行うというのです。
これを目の当たりにした酒匂「初霜」艦長は非常に感銘を受け、木村司令官を立派な指揮官であると戦後も長く語っています。

さて帰りがけですが、「初霜」は「初春」、「第九号輸送艦」と共に、「第一三一号輸送艦」の捜索を命じられます。
この「第一三一号輸送艦」は、単独で10月28日にマニラを出発、レイテへ揚陸を成功させた輸送艦です。
レイテからの帰途、空襲を受けて一時行方不明になっていたものが味方捜索機に発見されたので、「初霜」たちが救援に赴くこととなったのです。
「初霜」たちはパナイ島付近で「第一三一号輸送艦」を首尾良く発見、「第九号輸送艦」が曳航して5日、マニラに無事帰投することが出来ました。

この後、第五次多号船団に再び同行する予定でマニラに待機していた「初霜」ですが、第二次以降多号作戦に参加することはありませんでした。
11月13日にマニラが米機動部隊による大空襲を受けたためです。
当日、マニラには「那智」以下の第二遊撃部隊や、一水戦、二水戦の駆逐艦などが在泊していましたが、奇襲されてしまい「木曾」の沈没を始め、在泊艦艇が大打撃を受けてしまったのです。
撃沈された艦艇の中には、「初霜」竣工以来の僚艦「初春」も含まれていました。
初春」は「初霜」のすぐそばに係留されていたのですが、先に被爆し大火災を生じました。
その黒煙が「初霜」を覆い隠す形になり、「初霜」には爆弾が落ちなかったと言われています。
この「初春」沈没によって、「初霜」は「初春型」最後の生き残りとなってしまったのです。
辛うじて難を逃れた各艦は、志摩中将の命令でその夜のうちにマニラを脱出します。
「初霜」は第五艦隊司令部要員を収容し、ブルネイに向かいました。
果たして翌14日米機動部隊は再び来襲したのです。
マニラの駆逐艦部隊は、全滅を免れることが出来たわけです。

ブルネイに逃げ込んだ「初霜」たちは、リンガに移って後、ばらばらに行動することになります。
「初霜」と「」は、内地に帰る戦艦「榛名」の護衛として選ばれ、シンガポールから馬公までの護衛を担当します。
そしてカムラン湾に入港、待機します。
これは、ミンドロ島に米軍の輸送船団が向かっているとの情報が入っており、第二遊撃部隊はこれを捕捉するため、リンガからカムランに進出するよう命令を受けていたからです。
しばらくカムラン湾に待機していた第二遊撃部隊ですが、空襲の恐れが出てきたためサンジャックに移動することになります。
「初霜」は再び「」と組んで、タンカー「日栄丸」を護衛して出港します。
しかしその途中、サンジャック沖において「妙高」被雷の緊急電が入り、2隻はその護衛を命じられます。
「妙高」は先の比島沖海戦において空襲により被雷、シンガポールにおいて応急修理の後本土に回航しようと同地を出港した12日、米潜に雷撃を受けたのです。
「妙高」は最大速力が6ノットに低下してしまい、再びシンガポールに戻ることになりました。
」は「妙高」を曳航しようとしますが、船体の大きさが違いすぎ、曳航が出来ません。
結局シンガポールの「羽黒」を呼び出し、曳航してもらうことになります。
こうしてようやく「羽黒」による「妙高」曳航が始まると、今度は20日、「」が第二遊撃部隊に呼び戻されます。
米軍のミンドロ島への上陸が開始されたことに伴って、第二遊撃部隊が機動反撃を行うためです。
「初霜」も第二遊撃部隊麾下の艦ですから、本来であればこの作戦に参加するはずでした。
しかし今は「妙高」護衛が優先され、「初霜」は礼号作戦には参加できずに終わってしまいました。

「妙高」を護衛してシンガポールに着いた後は、「初霜」は昭和20年の2月までシンガポールをほとんど動きませんでした。
しかし2月になるとそれまで「初霜」が所属していた第二遊撃部隊が解隊され、更に本土への帰還命令が下ります。
この頃はフィリピンのほとんどが米軍の手に落ちたおかげで、南シナ海の制海権は日本軍の手を離れ、日本の戦略物資の還送ルートはほとんど完全に遮断されてしまっていました。
戦略物資が極度に不足している日本本土は、何とかして南方の資源を国内に運び込もうと、あらゆる手段を講じようとしたのです。
その中の一つに、第四航空戦隊「伊勢」「日向」による南シナ海強行突破計画がありました。
この計画は「北号作戦」として実行に移されます。
参加艦艇は、「伊勢」「日向」「大淀」、護衛として二水戦の「」「初霜」「朝霜」の、合計6隻です。
「伊勢」「日向」「大淀」は巨大な格納庫を持っており、そのスペースを利用してガソリンや生ゴム、すずなど大量の物資が積み込まれ、一部は「初霜」たち駆逐艦にも搭載されました。
特にこの大量のガソリンのため、戦闘は厳禁されました。
機銃弾一発でも大火災になる可能性があったからです。
この戦略物資輸送艦隊は、特別に完部隊と呼称されました。

昭和20年2月10日、完部隊はシンガポールを出港、一路日本を目指します。
部隊は米潜や米航空機に絶えず接触を受け、久々の獲物を捉える機会をうかがいます。
ところがこの部隊は非常に幸運に恵まれていたのです。
攻撃のためにフィリピンから米重爆がやって来ると、ちょうど低い高度にたれ込めたスコール雲があったため、完部隊はその中に飛び込んで爆撃隊をやり過ごすことが出来たのです。
完部隊が南シナ海を通過中米爆撃隊は2度やって来ましたが、2度とも同じようなスコール雲があり、「初霜」たちは事なきを得たのです。
雲の中に隠れていても、レーダー爆撃が可能な米重爆ですから、それだけでは安全というわけではありませんでした。
四航戦の松田司令は雲の中に隠れている間は対空砲火を禁止し、この措置のために雲上の重爆隊はレーダーに映る輝点が敵か味方か分からず、思い切った爆撃が出来なかったのです。

一方、米潜も相当の脅威でした。
しかも連合艦隊司令部は内地への回航命令を出すだけ出しながら、そのために必要な潜水艦の出没状況などは知らせてくれません。
南シナ海、東シナ海ともに米潜の跳梁が激しく、護衛の駆逐隊は神経をとがらせます。
聴音機や見張り、電探、どれもがしばしば敵潜らしきものの発見を報告して来ました。
そして少なくても三度は雷撃を受けますが、「伊勢」「日向」はその全てを回避することに成功します。
特に最初の雷撃では、深度調整を誤ったのか、米潜の放った魚雷が水面を走ってくるのが確認できたそうです。
これに対し「伊勢」は、恐ろしいことに高角砲による魚雷迎撃を敢行したのです。
その射撃は見事成功し魚雷1本を誘爆させたらしく、伊勢関係者の戦後の回想録などでは手柄話として景気よく書いています。
もっとも立場が変われば見方も変わるわけで、近くを護衛して走っていた「初霜」の方からすればそれは結果オーライというもので、「伊勢」の放った弾が跳弾になるので危なくて仕方がなかったと酒匂「初霜」艦長は回想しています。
更に「伊勢」は20キロの彼方に浮上中の敵潜を発見すると、主砲射撃で追い払おうとまでしています。
結果的にはこれも成功し、米潜はしっぽを巻いて逃げたのですが、そんな距離では敵味方不明なのではないかと疑いたくもなります。
完部隊は全く損害を出すことなく2月20日、呉にたどり着くことが出来ました。
この時期の厳しい状況の中のこのほとんど奇跡に近い生還劇は、確かに幸運にも恵まれましたが、ルート選択や反撃制限などの判断の的確さも大きなウェイトを占めていたことは疑いようもないでしょう。

内地に戻った「初霜」は呉に腰を落ち着け、そこで整備・訓練に励みます。
しかし内地では燃料が逼迫していたため、極力艦を動かさないで済む訓練方法に終始していたそうです。
3月19日の呉空襲でも損害を受けることなく、やがて運命の4月5日を迎えます。
その日の午後、何の前触れもなく連合艦隊から第一遊撃部隊宛てに、沖縄突入命令が下されたのです。

昭和20年4月6日、豊後水道を南下する艦隊がありました。
中央に、世界最大の戦艦「大和」
その周囲を護る小艦艇の中に、1隻の「初春型」駆逐艦の姿がありました。
彼女は第二十一駆逐隊「初霜」、今や「初春型」最後の生き残りとなった「初霜」の雄姿でした。
「初霜」は、沖縄海上特攻作戦に参加していたのです。
やがて16時半から、二水戦の各艦は「大和」を目標にして襲撃訓練を行いました。
それまで燃料不足で動くこともままならなかった二水戦が久々に行った魚雷襲撃訓練であり、これによって各駆逐艦は士気を非常に高めることが出来ました。
そしてこれが帝国海軍最後の水雷戦隊による襲撃訓練になってしまったのです。

翌7日、雲が低い中を特攻部隊は南下を続けます。
二水戦は「大和」を中心に輪形陣を組み、「初霜」は「大和」の左斜め後方に占位します。
この位置は比較的敵の攻撃を受けづらい位置だそうで、酒匂「初霜」艦長が二水戦駆逐艦長の中で最も若いために優遇されたのかも知れません。
7時前、「初霜」の所属する二十一駆司令駆逐艦「朝霜」が機関故障のため落伍し始め、やがて水平線の彼方に見えなくなってしまいます。
そして12時40分、米空母機との死闘が始まりました。

来襲米軍機、その数、実に219機。
あまりの機数の多さ故に、第一次空襲は二波に分けて行われます。
第一波は125機。
マリアナ、比島沖決戦を経て、より一層練度を上げていた米空母機の攻撃は、熾烈を極めました。
その爆弾と魚雷の豪雨の中、「初霜」たち二水戦の護衛艦隊は、「大和」を護らんと必死の防戦を試みます。
第一次空襲・第一波が終了。
この空襲では駆逐艦「朝霜」「浜風」が撃沈され、軽巡「矢矧」は被雷し航行不能に陥っていました。
「初霜」は何の損害も受けることもありませんでした。

12時59分、第一次空襲・第二波、94機が攻撃を開始。
「初霜」は対空戦闘を再開します。
護衛艦のうち早くも3隻を失ったため陣形は粗くなっており、また「大和」も既に傷つき、それ以上に米空母機は勇猛でした。
低く垂れ込めた雲の間から、次々と米軍機は攻撃を仕掛けてきます。
艦爆、艦戦隊は、「大和」を護衛して激しい防御砲火を放つ二水戦の駆逐艦隊の沈黙を狙います。
特に米戦闘機隊が使用し始めたロケット弾は回避が難しく、装甲のない駆逐艦にとって爆弾、魚雷以上の脅威となりました。
第一次攻撃隊・第二波の攻撃では「」と「涼月」が損害を受け大破してしまいました。
雷撃機隊は「大和」を集中的に攻撃してきました。
「大和」を狙って放たれ外れた魚雷は、「大和」を護衛する「初霜」「冬月」に襲いかかりますが、調定深度が戦艦用の6メートルと深かったため、喫水の浅い駆逐艦には命中せず、彼女たちの艦底を次々と通過していきました。
「初霜」はこの回の空襲も無事に切り抜け、いよいよ意気盛んです。
しかし被雷により「大和」は速度が低下、傾斜も目に見えてひどくなっていましたが、注水によって復原させていました。
通信も不自由になったのか第二波空襲終了後の13時22分、「初霜」は「大和」から通信代行の命令を受けます。

13時45分、第二次攻撃隊105機が来襲、攻撃開始。
いつしか「大和」を護るのは「初霜」の他、「冬月」「雪風」の3隻のみとなってしまいました。
「初霜」たちは懸命に対空砲火を打ち上げますが、護衛艦の脱落により米雷撃機の「大和」への攻撃は極めて容易になってしまっていました。
雷撃を集中された「大和」は大破炎上、14時23分、遂に横転沈没してしまったのです。
第二次攻撃隊によって軽巡「矢矧」も撃沈されており、その救援に赴いていた「磯風」も航行不能に陥っていました。

「大和」爆沈により、米軍の攻撃は終息しました。
まだ動くことの出来るのは「初霜」と「雪風」、そして「冬月」の3隻だけでした。
涼月」は行方不明、「磯風」は被爆後に北上中らしいのですが詳細は不明、「」は航行不能で漂流していました。
3隻はこのまま沖縄に突入するかどうか迷いましたが、海面には大勢の沈没艦乗組員が浮き沈みしています。
結局3隻は、一時的に指揮官となった「冬月」座乗の四十一駆司令吉田大佐の指示に従い、沈没艦の救助活動を開始することになったのです。
「初霜」は「矢矧」乗組員の救助に向かうことになりました。

その途中「初霜」は、後進で南東方面に向かっている「涼月」を発見します。
涼月」は爆弾の直撃で大破しており、浮いているのが精一杯という状況でした。
ジャイロ・コンパスも破壊されており、磁気羅針儀を頼りに佐世保に向かっているつもりでした。
しかしその磁気羅針儀は大きく狂っていて、佐世保のある北東ではなく南東に向かっていたというわけです。
「初霜」は後進をかけている「涼月」の艦首に後続すると、方角の照合を手伝います。
このおかげもあって、「涼月」はこの後再び消息を絶ちますが、翌8日佐世保に奇跡の生還を果たすことが出来ました。

「矢矧」沈没地点に到着するとすぐさま救助活動を開始、更に近くを漂泊していた「浜風」乗組員も拾い上げます。
やがて17時を過ぎた頃、「矢矧」に座乗していた二水戦司令官古村少将が「初霜」艦上に助け上げられ、「初霜」は二水戦旗艦となって指揮権を継承することになりました。
そして古村少将は「初霜」艦上で「磯風」処分を決するのです。
」は既に処分され洋上になく、「磯風」処分は苦渋の決断でしたが、敵潜の跳梁を考えると曳航は断念せざるを得なかったのです。
こうして海戦後の処置を終えた「初霜」は、再び行方不明になった「涼月」捜索のために「冬月」を分派すると、「雪風」と連れだって佐世保へ帰投したのです。

坊ノ岬沖海戦と名付けられたこの海戦において、「初霜」は負傷者わずかに2名を出したに過ぎず、「初霜」の強運ぶりは際だっていました。
しかしこの海上特攻作戦は、作戦の終結が指示されるまでに、「大和」以下6隻の艦艇と3700名にも上る戦死者を犠牲にしなくてはならなかったのです。
対する米軍の損失は、被撃墜わずかに10機でした。

佐世保に帰投した「初霜」は、その後「雪風」のいる第十七駆逐隊に編入されることになりました。
開戦以来存続してきた二十一駆は解隊されることになったのです。
6月には「雪風」と共に日本海に回航され、宮津湾に投錨します。
そこには疎開してきた砲術学校があり、彼らの訓練に従事することになったのです。
また特攻機の訓練目標の役目も果たすことになりました。
既に戦争は敗戦の様相を色濃くしており、艦載機による本土空襲など日常茶飯事と化していました。
また日本の港湾という港湾がB29などが敷設する機雷に封鎖されており、うっかり航行することもできない有様でした。
宮津湾も例外ではなく、B29が現れて機雷を敷設しています。

7月30日朝、宮津湾に隠れていた「初霜」「雪風」は、潜水母艦「長鯨」などと一緒に空母機に空襲されます。
この日空襲にやって来た空母機の国籍マークは、いつもの米軍の星のマークだけではなく、英軍のマークも混じっていました。
英海軍機も本土空襲に参加していたのです。
歴戦の「初霜」「雪風」は、直ちに抜錨します。
「初霜」は爆弾、ロケット弾の直撃こそありませんでしたが、機銃掃射を受け、酒匂艦長が重傷を負い、他にも多数の死傷者を出してしまいます。
そこへ「雪風」の十七駆司令が、陸岸への接近を指示してきました。
万一の場合、容易に擱座出来ることを狙ったものでしょうか。
しかしこの時ばかりは裏目に出てしまったのです。
「初霜」が陸岸によって行くと、突然艦尾で大爆発が起きました。
触雷してしまったのです。
更にもう1回爆発音が響き渡ります。
二度目の触雷か、爆雷の誘爆か、あるいはその両方か判然としませんが、これにより「初霜」は艦尾から沈み始め、遂に湾内に座り込んでしまいました。
そして擱座したまま、8月15日の敗戦の日を迎えたのです。
敗戦後、「初霜」は浮揚され舞鶴にて解体、ここにその激動の生涯を終えたのです。

戦後長く経ってから、一人の「初霜」関係者が舞鶴の解体業者を訪ねます。
そこであるものを発見したその関係者は、そのあるものを譲り受け、自宅前に何の解説も付けずに公開したのです。
それは「初霜」の主錨でした。
船体は解体されたのですが、錨は溶かされることなく残っていたのです。
この「初霜」の形見は、現在でも東京都内のある場所で公開されています。
もちろん現在は、その由来がしっかりと記されているそうです。

略歴
昭和 8年 1月31日 浦賀船渠にて起工
昭和18年 5月25日 命名
昭和18年 7月18日 進水
昭和 9年 9月27日 竣工
第二十一駆逐隊に編入
昭和16年12月 8日~ 内海にて対潜掃蕩に従事
(第一艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/主力部隊)
昭和17年 1月14日 徳山~ダバオにて、輸送船護衛任務(1月22日ダバオ着)
昭和17年 1月23日 ダバオ出撃、ケンダリー攻略作戦に参加
(第一艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊・東方攻略部隊・第一根拠地部隊)
昭和17年 2月 6日 ケンダリー出撃、マカッサル攻略作戦に参加
(第一艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊・東方攻略部隊・第一根拠地部隊)
昭和17年 2月18日 マカッサル出撃、バリ攻略作戦に参加
(第一艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/南方部隊・蘭印部隊・東方攻略部隊・第一根拠地部隊)
昭和17年 3月16日 マカッサル発、柱島回航(3月25日柱島着)
昭和17年 4月24日 佐世保にて入渠(5月1日出渠)
昭和17年 5月 1日~ 砲術学校・潜水学校の教練作業に従事
昭和17年 5月20日 呉発、大湊回航(5月21日大湊着)
昭和17年 5月25日 大湊出撃、アッツ攻略作戦に参加
(第一艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/北方部隊・AQ攻略部隊・敷設隊)
昭和17年 6月 8日~ アリューシャン方面にて行動
昭和17年 7月16日 キスカ発、占守経由、横須賀回航(7月23日横須賀着)
昭和17年 8月 2日 横須賀発、幌莚回航
昭和17年 8月12日 幌莚出撃、本土東方海面において米機動部隊捜索に参加(8月16日大湊着)
昭和17年 8月29日 大湊発、幌莚回航(9月2日幌莚着)
昭和17年 9月 3日 幌莚発、北海支隊のキスカ移駐作戦に従事
昭和17年 9月18日 キスカ発、大湊回航(9月23日大湊着)
昭和17年10月18日 大湊発、占守回航(10月20日占守着)
昭和17年10月20日 占守発、「初春」救援作業に従事(10月25日幌莚着)
昭和17年10月26日 幌莚発、アッツ島再占領作戦に従事(11月1日幌莚着)
(第一艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/北方部隊・挺身輸送部隊)
昭和17年11月 7日~ 幌莚~キスカにて、輸送任務(11月13日占守着)
昭和17年11月24日 大湊発、セミチ攻略作戦に従事(11月28日延期、12月2日占守着)
(第一艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/北方部隊・挺身輸送部隊)
昭和17年12月 5日 占守発、大湊経由、横須賀回航(12月9日横須賀着)
昭和17年12月16日 横須賀発、「君川丸」護衛任務に従事
昭和17年12月31日 幌莚発、大湊経由、佐世保回航(1月6日佐世保着)
昭和18年 1月 9日 佐世保にて入渠(1月23日出渠)
昭和18年 1月31日 佐世保発、幌莚回航(2月4日幌莚着)
昭和18年 2月13日 幌莚~キスカにて、輸送船団護衛任務
昭和18年 3月23日 幌莚~キスカにて、輸送船団護衛任務
昭和18年 3月27日 アッツ島沖海戦に参加
(第一艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/北方部隊・主隊)
昭和18年 3月30日 幌莚発、横須賀回航(4月3日横須賀着)
昭和18年 4月15日 横須賀にて入渠(4月20日出渠)
昭和18年 5月11日 横須賀~幌莚にて、輸送船団護衛任務(5月14日幌莚着)
昭和18年 5月25日 幌莚発、アッツ島緊急輸送作戦に参加(5月28日中止、5月31日幌莚着)
(第五艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/北方部隊・前衛部隊・挺身隊)
昭和18年 7月 7日 幌莚発、「ケ」号作戦(第一次キスカ撤収作戦)に参加(7月15日中止、7月18日幌莚着)
(第五艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/北方部隊・水雷部隊)
昭和18年 7月22日 幌莚発、「ケ」号作戦(第二次キスカ撤収作戦)に参加(7月29日キスカ突入、8月1日幌莚着)
(第五艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/北方部隊・水雷部隊)
昭和18年 7月26日 「ケ」号作戦(第二次キスカ撤収作戦)に参加中、「若葉」「長波」と触衝、損傷
昭和18年 8月27日 幌莚発、横須賀回航(8月30日横須賀着)
昭和18年 9月15日 横須賀にて入渠(10月1日出渠)
昭和18年10月 9日 横須賀発、佐伯回航
昭和18年10月11日 佐伯~シンガポールにて、「千歳」「龍鳳」護衛任務(10月19日シンガポール着)
昭和18年10月26日 シンガポール~呉にて、「千歳」「龍鳳」護衛任務(11月5日徳山着)
昭和18年11月25日 長浜~シンガポールにて、「飛鷹」「龍鳳」護衛任務(12月3日シンガポール着)
昭和18年12月 9日 シンガポール~タラカンにて、「飛鷹」「龍鳳」護衛任務(12月14日タラカン着)
昭和18年12月15日 タラカン~パラオにて、「飛鷹」「龍鳳」護衛任務(12月18日パラオ着)
昭和18年12月18日 パラオ~トラックにて、「飛鷹」「龍鳳」護衛任務(12月22日トラック着)
昭和18年12月24日 トラック~横須賀にて、「雲鷹」護衛任務(12月29日横須賀着)
昭和19年 1月 4日 横須賀~トラックにて、「雲鷹」護衛任務(1月9日トラック着)
昭和19年 1月18日 トラック~横須賀にて、「瑞鳳」「雲鷹」「能代」護衛任務(1月19日「雲鷹」被雷、1月23「雲鷹」護衛サイパン着)
昭和19年 1月27日 サイパン~横須賀にて、「雲鷹」護衛任務(2月7日横須賀着)
昭和19年 2月14日 横須賀発、徳山経由、鹿児島回航(2月17日鹿児島着)
昭和19年 2月20日 鹿児島~サイパンにて、「千歳」護衛任務(2月23日予定変更、2月24日ウルシー着)
昭和19年 2月25日 ウルシー~サイパンにて、「千歳」護衛任務(2月26日サイパン着)
昭和19年 3月 7日 サイパン~横須賀にて、輸送船団護衛任務(3月11日横須賀着)
昭和19年 3月29日 伊勢湾~サイパンにて、「龍鳳」「瑞鳳」(途中合同)護衛任務(4月2日サイパン着)
昭和19年 4月 3日 サイパン~呉にて、「龍鳳」「瑞鳳」護衛任務(4月7日呉着)
昭和19年 4月22日 佐世保にて入渠(5月6日出渠)
昭和19年 6月 6日 佐世保~ダバオにて、「速吸」護衛任務(6月11日ダバオ着)
昭和19年 6月16日 ダバオ出撃、あ号作戦に参加(6月23日ギマラス着)
(第一機動艦隊・第二十一駆逐隊/第一補給部隊)
昭和19年 6月26日 ギマラス~呉にて、油槽船団護衛任務(7月2日門司着)
昭和19年 7月 6日 三池~マニラにて、輸送船団護衛任務(7月15日マニラ着)
昭和19年 7月31日 高雄発、呉回航(8月4日呉着)
昭和19年 8月20日 鹿児島~基隆にて、輸送船団護衛任務(8月25日基隆着)
昭和19年 8月28日 高雄~呉にて、輸送船団護衛任務(9月4日呉着)
昭和19年10月11日 呉にて入渠(10月14日出渠)
昭和19年10月15日 呉出撃、台湾沖港空戦の残敵掃討戦に参加(10月17日奄美大島薩川湾着)
(南西方面艦隊・第五艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/第二遊撃部隊)
昭和19年10月18日 奄美大島薩川湾発、馬公経由、高雄回航(10月21日高雄着)
昭和19年10月22日 高雄~マニラにて、輸送任務に従事(10月23日マニラ着)
昭和19年10月23日 マニラ出撃、捷号作戦に参加(10月27日マニラ着)
(南西方面艦隊・第五艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/第二遊撃部隊)
昭和19年10月24日 捷号作戦に従事中、米空母機の空襲により損傷
昭和19年10月31日 マニラ出撃、第二次多号作戦に参加(11月4日マニラ着)
(南西方面艦隊・第五艦隊・第一水雷戦隊・第二十一駆逐隊/第二遊撃部隊)
昭和19年11月13日 マニラ発、ブルネイ経由、リンガ回航(11月22日リンガ着)
昭和19年11月28日 リンガ~馬公にて、「榛名」護衛任務(12月4日馬公着)
昭和19年12月 6日 馬公発、カムラン湾回航(12月10日カムラン湾着)
昭和19年12月17日 カムラン湾発、油槽船護衛任務、次いで「妙高」救援任務(12月25日シンガポール着)
昭和20年 2月10日 シンガポール出撃、北号作戦に参加(2月20日呉着)
(第二艦隊・第二水雷戦隊・第二十一駆逐隊)
昭和20年 3月23日 呉にて入渠(3月27日出渠)
昭和20年 4月 6日 徳山出撃、天号作戦に参加(4月8日佐世保着)
(第二艦隊・第二水雷戦隊・第二十一駆逐隊/第一遊撃部隊)
昭和20年 4月10日 佐世保にて入渠(4月16日出渠)
昭和20年 7月30日 宮津湾にて米英空母機の空襲、および触雷により沈没
昭和20年 5月10日 類別等級表より削除
第21駆逐隊解隊
除籍
2000.04.02初出
2008.01.29改訂
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