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No.1910 miggyさま
投稿者: 志郎 21 Apr 2015 21:23:18
ありがとうございます。
ロシア皇帝の件はさっぱりわかりません。いずれ信管は、砲弾用でない限り似たようなものかも。

No.1909 Torisさま
投稿者: 志郎 21 Apr 2015 21:21:17
お返事が遅くなって申し訳ありません。
ブラウザの調子が悪かったのか、しばらく新規書き込みが反映されていなかったようです。失礼しました。
ブレナン魚雷については、NF文庫「水中兵器」でも取り上げており、こちらではスクリュー軸からワイヤを出した新型を図説しております。
上部からワイヤを出していたのは、初期型のようです。
関連サイトのご紹介、ありがとうございます。

No.1908 水中兵器
投稿者: miggy 21 Apr 2015 02:03:37
今日購入しました。
現代からでは気づきにくい点を平易に説明していて楽しいです。

ロシア皇帝を攻撃した手投げ弾の信管は機雷に由来する?わかりませんが。


No.1907 Brennan魚雷の参考資料
投稿者: Toris 02 Apr 2015 06:43:02
はじめまして。
「誘導魚雷」ページを拝見しました。Brennan魚雷、面白い推進方法ですね。英語版wikiによると、糸巻きの糸を引いた時、糸巻きが反対方向に転がって行く所を見て思いついたのだとか。
また、構造を理解する際、参考になりそうな資料がありましたので、よろしければどうぞ。

発射シーケンスの図によると、ワイヤーは、スクリューの後ろから引き出していたようです。(上の棒状のものは、マストだそうです)

左右方向の操舵は、(全体像を見ていないのであくまで推測ですが)、Victorian FortsのSteering Drive Pulleysなどの写真から察するに、プーリーの左右を、(ワイヤードラムに接続した)互いに逆回転する回転子で挟んでおいて、その差分を取り出しているのではないかと思います。ワイヤードラムと2重反転プロペラを接続している、ディファレンシャル(差動)ギアから取り出すのかな・・とも思いましたが。

参考資料:
発射方法、写真など
http://www.victorianforts.co.uk/brennan.htm
英語版wiki
http://en.wikipedia.org/wiki/Brennan_torpedo
写真
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Brennan_Torpedo
ディファレンシャルギアの解説
https://www.youtube.com/watch?v=K4JhruinbWc


No.1906 連絡先
投稿者: アン・ソンイ 05 Mar 2015 22:09:37
こんにちは。私は韓国の調査報道機関「ニュースタパ(NEWSTAPA)」(Korea Center of Investigative Journalism)のアン・ソンイと申します。潜水艦や魚雷に関して取材をしています。ネットで検索し、新見志郎さんの「水中兵器」という本を発見しました。現在の潜水艦や魚雷に関して聞きたいことがありますが、いろいろ説明させてもらえますか?もしできれば、songyi.ahn5@gmail.comに連絡お願いいたします。あるいは、ここから直接連絡するので、連絡先を教えてください。よろしくお願いいたします。
URL: http://www.newstapa.org

No.1905 KDBさま
投稿者: 志郎 02 Mar 2015 11:26:35
ありがとうございます。
ノルデンフェルトの写真はトルコ海軍のものです。いずれテストはともかく、当時の潜水艦に実用性は期待できないですね。でも、敵対する側はけっこう怖がるところで。

No.1904 >hushさま
投稿者: 志郎 02 Mar 2015 11:23:53
ありがとうございます。

No.1903 拝見しました
投稿者: KDB 25 Feb 2015 08:01:07
お久しぶり、KDBです。
「水中兵器」拝見しました。色々考えたものですね、楽しませていただきました。米国
南軍の「ハンレー」が攻撃成功後に無事の合図?をしていた事は知りませんでした。
ノルデンフェルトの蒸気潜水艦の話、もっと聞きたかったですね。資料によると艦内の
温水タンクに、飽和蒸気を出す高温熱水を蓄えるのに3日くらいかかり、それで水中を
行動できるのは数時間位だったとか?。潜航するための鉛直プロペラが甲板上にあり、
これでは余分なエネルギーを消費するばかりか、自分の位置を曝すことになってしま
いますね。機関車なら「無火機関車」というのがありますけど潜水艦には無茶ですね。
掲載されている写真はトルコ海軍に納入された艦ですか?だ相当昔に(1961年頃!)、
当時発売されていた雑誌「海と空」のトルコ海軍特集号で見た記憶があります。

No.1902 勝手に
投稿者: hush 22 Feb 2015 20:38:08
 宣伝しておきました。
 
URL: http://hush.gooside.com/

No.1901 それはそれは
投稿者: hush 14 Feb 2015 19:32:20
楽しみにしております。
URL: http://hush.gooside.com/

No.1900 水中兵器
投稿者: 志郎 14 Feb 2015 11:30:30
昨日、潮書房光人社にて「水中兵器」の見本を受領しました。
一般書店への配本は来週の予定ですが、すでに一部では先行販売されているようです。

No.1899 NF文庫 巨砲艦 お知らせ
投稿者: 志郎 08 Dec 2014 22:13:34
P351・河川モニター「ライタ」の項で、現物の係留場所が変わったようです。
新しい場所は、47°30'25"N - 19°2'41"E の、ブダペスト市内、ハンガリー国会議事堂の正面という、凄い場所です。
URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

No.1898 コミケット86
投稿者: 志郎 07 Aug 2014 09:04:20
今回のコミケでは、8月15日金曜日 西地区 "く" ブロック 06a 縹渺舎において、新刊「自虐的巡洋戦艦史vol.5」を販売します。単価は800円の予定。
なお、品切れになっていたvol.3(含金剛)を増刷しましたので、一緒に販売します。もちろん、1〜4も用意してあります。

手綴じの旧作品は、「龍の尾をひとひねり(ゼーブリュッヘ強襲作戦)」、「遠き祖国(ドイツ東洋艦隊の活躍)」三部作、「トライオン提督の残せしもの(戦艦ヴィクトリアの衝突事故顛末)」を若干数持ち込みますが、多くはありませんので、ご希望の方はブースでお尋ねください。

これ以外の旧作については、ご希望があれば予約販売を受け付けます。この掲示板でも、直接のメールでも受け付け、品物は当日現場でのお渡しになります。価格はそれぞれですので、お尋ねください。店頭在庫はありません。

なお当日以降、「自虐的巡洋戦艦史」シリーズは全巻、神田神保町の書泉グランデ5Fにてお買い求めいただけます。

外にも新刊「軍艦伊吹の建造」が発売されますので、こちらもよろしくお願いします。
皆様のご来訪をお待ち申し上げております。

URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

No.1897 KDBさま
投稿者: 志郎 03 Jul 2014 22:26:31
ありがとうございました。お返事が遅くなって申し訳ありません。
>小型の版
図面とか、写真とか、図面とか、写真とか、図面とか…
まあ、仕方ないんですけどね。
URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

No.1896 遅ればせながら
投稿者: KDB 30 Jun 2014 16:52:53
ノヴィックの連載ご苦労様でした。「巨砲艦」購入し楽しませてもらいました。「三景艦」もどきが他の国にもあったこと、ネプチューンが「高千穂」になったかもしれない話など、はじめて知りました。まあ希望を言えば、小型の版ですから仕方ないですが、図面類がもっと大きく掲載されていたらよかったですね。

No.1895 miggyさま
投稿者: 志郎 23 Jun 2014 22:10:58
>選択肢
そうかもしれませんが、で、あればなおのこと、エムデン、ミューラー艦長の偉大さが際立つわけで。旅順からの主力脱出の前に巡洋艦が放たれていたら、いったいどんなことになったやら。
>巨砲艦
ありがとうございました。
URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

No.1894 ノヴィック連載お疲れ様です
投稿者: miggy 22 Jun 2014 19:23:56
ノヴィックかどういう選択肢を取った方がよかったのかは議論の分かれるところでしょう。浦塩に入ったところでどうなるものでも無いような気がします。当時の人が(敵が)制限された中で何を考えてどう行動したのかは興味深いものです。あと、巨砲艦購入しました。ジャッキで持ち上げる旋回砲室はその当時の思考と技術では仕方なかったのかと思っていたのですが、ローラーパスにしたら繋ぎ目から浸水するからでもあったんですね

No.1893 ノヴィック物語・第44回
投稿者: 志郎 18 Jun 2014 23:04:37
 この頃には、兵員の靴は大半が破れてしまっていた。兵員の多くは船に乗せていた若干の牡牛を屠って、その皮で自ら革靴を作った。彼らはこうしてのべつに脚湯治をやっていれば、さぞ足傷に効き目があるだろうよ、などと盛んに駄洒落を飛ばした。
 進むにつれて熊の足跡はいよいよ増えてくる。しかしわが兵員は高歌放笑、終始よく騒ぐので、これらの獣どもは驚いて逃げ去るらしく、われわれは一匹も見かけなかった。いつも宿営地に着く前に、土人の小舟に料理人を乗せて先に送った。それから少し時間をおいて、各大艇は競漕で出発する。

 私は自分の舟でたいてい先頭だったが、例えば座洲のように思いがけないことで遅れるときは、楽隊は必ず「夜間戸外の曲」を演奏してわれわれを待ち受けた。その反響はあまねくタイガの大森林に響いて、未だ軍楽を知らない土民を、必ずや驚異させたことだろう。
 9月30日、一行は有名な水堰を見るに至った。これについてはかねて困った話を聞いていた。すなわち3分の1マイルほどに渡って川はまったく、春季の増水に乗って流されてきた流木に覆い尽くされ、第一層が基礎を為し、順次相積層してついに堰を形成し、ほとんど水も通さないくらいになっているのである。舟はこの障害物を避けて陸路を運搬されなければならず、これは長くかつ困難な仕事であった。

 この目的のために林が切り開かれ、一条の道路が造られたものの、大舟を通すには狭すぎることがわかり、さらに道幅を広げなければならなかった。その一方であまりにも地面を掘り返したため、竜骨の下に置くコロの滑りが悪くなってしまった。わが天晴なる兵員は、鼻歌まじりでこれをすっかり修復したものの、この仕事に丸一日を費やしてしまった。
 10月2日薄暮、流れに釣りをする婦人を見付け、我らはついに人里の最初の象徴を認めたのである。兵員は喜んで、談笑嬉々としてこの夫人に挨拶した。暗くなる前に一同はグロテコフの村に入り、ここで充分な糧食を調達することができた。

 最後の行程は最も短距離であったが、一番困難なものでもあった。しばしば急流に出くわし、舟を曳いてこれを遡らなければならなかったのである。2隻の舟は曳索が切れて下流に押し流され、うち1隻はついに転覆したが、ついに2隻ともこれを回収した。遡河隊の目的地はアブラモフであって、同地の官憲は、主隊がわれわれと待ち合わせているライコフへ時を移さず送ろうとして、車両輸送の準備を整えておいてくれたのであった。ライコフからは全隊が再び本来の隊形に復して進発し、沿道は多大の同情を喚起してくれた。

 10月14日、一同はアレクサンドロフに到着した。同地では我らを歓迎するために彫刻を施した華麗な皿に、パンと塩とを盛って我らを接待した。われわれのために盛宴が設けられた後、装飾目も眩むばかりの市の公会堂において、舞踏の催しもあった。
 われわれの到着と共に、冬がアレクサンドロフを見舞い、降雪霏々、寒風が我ら彷徨者を襲った。もし到着が数日遅かったならば、われわれは酷い目に遭っていただろう。一行を本土へ輸送するはずの汽船タングスは、狭隘な海峡における同船の錨場が安全でなかったので、一刻も早くとわれわれの到着を待ち焦がれていた。

 数日にしてわれわれは、アムール川上流25マイルのニコライエフに上陸した。そしてさらに汽船ツェサレヴィチに搭乗してハバロフスクまで遡航した。同地よりは鉄道でウラジオストックへ向かい、航程400マイル、日を数えるに45日を費やして、ついにサガレン縦断を果たし10月23日に目的地へ到着することができたのである。我らは海員であり、多くは行軍に慣れていない人々でありながら、一人の病者、落伍者も後方に残してこなかった点において、これすなわち世界一の記録であろう。

 かかる光彩を放つ成功が、全戦役を通じて、軍艦ノヴィックの士官ならびに下士卒間に横溢した、同心協力の念に帰すべきは疑いのないところであるが、それであってもなお、我らが担う全幅の栄誉は、これ実にわれわれがその下に奉仕した、天下無双の二人の艦長から受けた、わけても著しい激励の賜である。この天下無双の2艦長とは誰あらん、フォン・エッセンとシャルツ両氏、その人である。
第44回・全項終わり

ノヴィック物語
大正2年12月30日発行・非売品
発行所:水交社
発行・編集者:吉田力作

URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

No.1892 ノヴィック物語・第43回
投稿者: 志郎 16 Jun 2014 23:57:34
 私が水先案内として雇い入れた3名のアイノ(民族の名でアイヌのこと)は、第一日に各自それぞれ別の支流を採って進んだ。そしてわれわれが再び合流した時には、すでに暗かった。われわれは塩樽を忘れてきたのに気が付いたが、幸い塩肉の樽があったので、その底からひとかどの塩の沈殿を見付けだした。岸上にもっとも乾燥した場所を求め、そこに木の枝で小屋がけをして第一夜を過ごした。

 夜は非常な寒さで、毛布一枚持たない兵員は、火を囲んでなるべく密接して、互いに寄り合って横にならなければならなかった。それで火に面している方は焼けるように感じているのだが、火に背を向けている半身は、氷のような寒風に刺されるばかりであり、さらに深い霧のために寒気はいっそうの酷冷を加えたのである。それより上流は間もなく流れが強くなり、橈漕不可能となり、棹を使わなければならなかった。岸の形状が許す限りで、艇員の半数を陸に上げて船を曳かせたが、時々砂汀に乗り上げ、そのつど兵員が舟を押し出した。

 旅程およそ半ばのころ、われわれは一つの茅屋に出くわして驚いたが、その中から一人の男が現れて、パンと塩とを捧げて我らを歓迎し、彼が射たばかりのシャコ(鷓鴣=小型のキジの一種)を親しく私に贈ってくれたのである。私はウオッカ一瓶と若干の金を出して、どちらでも好きな方をと言ったが、彼は両方とも拒んで、火薬が一掴みほど欲しいと言った。その販売を禁じられているサガレンでは、火薬の目方はすなわち黄金の目方に値するほど貴いのである。
 それですら移民が、鉄砲で生活立てることをまったく防禦し得ない。それでも彼らは、黒貂の皮一枚を悪煙草の50銭がところに換え、これを10ないし15円で売る人間ほどには金持ちにならない。ロシア人の戦慄すべき悪習の影響で、今やアルコールは一般に称翫(=賞翫:もてあそぶこと)され、土人も移民も盛んにこれを用いていて、誰が最も甚だしい酒飲みであるのか、ちょっと確言いたしかねる。

 これらの土人は著名なところで、一小地方内に風俗、言語および宗教を異にする各々の型を見出すことができる。「アイノ」「オロチエネス」「ギリヤーク」「タンガセス」種族の如きがそれである。これらの中サガレンのみに住むのは独りアイノで、彼らはまさに遊牧民のように暮らし、一定の住所を有せず、タイガをさすらい、鳥獣を狩り、魚類を日本人に売って生計を立てているので、このため本戦役はほとんど彼らを零落させてしまった。

 わがアイノの水先案内の一人は、彼らに関する興味あることを、いろいろと細目に渡って話してくれた。彼らは文筆なるものを知らない。代々口碑でその宗教の作法式典を次代に伝える。また極めてまれではあるが泥棒が出てきたときは、即席選挙の審判官が出てこれを裁く。そして判決はいつも同じで、犯人はその右手を失うべしと宣告する。窃盗程度でこれほどに重い処罰に処せられるのであれば、殺人犯の処刑はどんなものであるかとの問いに答えて彼は、世界開闢以来、人殺しをしたアイノはいない。だからその件は未だかつて考えたことがないと豪語した。

 遡るに従って川幅は狭くなり、流れは激流となり、この急流を通って不細工な船を曳くことは、倦怠困難な仕事だった。時々曳索が切れて舟が流れ出す。その時は遠く下流にこれを追わなければならなかった。手短に言えば、この川旅行は、ただもう「艇座に座って櫂を操る」という一言にして尽きると信じられたので、私は病人以外にもすべての足傷患者までも託されたのである。しかし実際これらの憐れむべき者たちは、絶えず岸に沿って腰より上まで水につかり、氷のような水中を歩かなければならないのであった。
第43回・終わり

URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

No.1891 ノヴィック物語・第42回
投稿者: 志郎 14 Jun 2014 23:01:21
 黄昏近く、私は一気疲脚をおして、マグーンカタンという名の付いた川の岸に達した。対岸には電信局、それを簇擁していくつかの茅舎が蕈(きのこの意)の如く、その風情は激しく旅情を動かすものであった。
 主隊が到着した時には、落伍者がかなり多かった。これらのある者は深夜に及んでようやく隊に合流することができた。馬もたびたび倒れた結果、すこぶる哀れな状態に陥っていた。当地から25マイルを隔てたナイエロに向けて出立するに先立ち、われわれは来会した漁舟に負傷者を託した。道は海岸に沿っており、干潮の時は概して固い砂を踏んでいくことができた。所々にある日本人の漁場は便利な宿営所となり、絶えず降り注ぐ雨に対して、避難場所をわれわれに与えてくれるのであった。

 ナイエロはこの地区の司令官である陸軍少佐の司令部の所在地で、彼は純白の手袋をつけ正装でわれわれに接見し、士官は彼の邸宅に宿泊するようにと申し出た。各室とも手がよく行き届いて、久方ぶりにベッドで眠れるかと思うと甚だ愉快であった。しかしながら、寝台に南京虫がうようよしているのを発見した時の私の胸中を察してほしいものだ。それゆえ私は厩の上の枯草置き場に、案内者の囚人と一緒に寝るしか仕方がなかった。
 出立に臨みこの親切な少佐は、われわれが消費したと思われるすべてのものに対し、素的もない(ママ)勘定書きを出した。われわれは「この野郎…」という心を顔に言わせて、侮蔑の一瞥を金と共に投げ渡した。彼はわれわれが多少ともかかわり合ったコルサコフ地方の泥棒中の、最後のものであった。それ以来われわれは、すべての人からひたすら親切と鄭重をもって接待された。

 我が主隊が、本道筋であるオノルの大耕地を横断する間に、私は100マイル以上も一つも人家に出くわさない覚悟で、ポロナイ河により漁舟を使用して、武器と荷物の運搬を委託された。駄馬はただ糧食を運ぶのみ。そうなれば私の目は、森林の中にある有名な開拓地をまったく見なかった。土人の言によれば、この開拓地を拓いた技師カノッフは、その配下にあった800の囚徒中、わずかに10人ほどを除いて、他をことごとくその場に死なせたのである。すなわち些細な不従順事件によるだけでも、かなり多くの者がカノッフに銃殺されたという。それでも大半は過労と辛苦に倒れたのだ。このためひと騒動が持ち上がり、カノッフは審議にかけられたが放免されてしまった。

 事業は未だ木を切り倒すこと以上に何ら進捗しておらず、道路は依然として開鑿を要した。この沢地においてわれわれは、幾頭かの馬を失った。こうして私はナイエロ(ナイオロ=現在のガスチェッロかも)において道連れと分かれ、45名の水兵を率い、チコメニエフ村(現在のポロナイスク=敷香町かも)において海岸に達し、クラマレンコ人の漁場から7隻の大漁舟を徴発し、これによって9月20日、ポロナイ河の河口に達した。自ら進んでこの船の1隻の保管を任じた看護手は、河口でこれを転覆させてしまい、その舟の荷はことごとく川底に沈んでしまった。
(ポロナイ河=幌内川は、サハリン中部を北から南へ流れる川で、東岸の都市ポロナイスク付近でオホーツク海に注いでいる)

 遡河125マイルの我が旅程に対し、準備を整えようと私は数日間チコメニエフに滞在した。主たる困難は、全旅程を支えるに足るパンを焼くことにあった。9月23日、未だ灰色の暁を破って、橈声勇ましく出発した。やがて太陽が昇ると、興のない景色も引き立ってきて甚だ愉快、打ち続く好天気はわれわれの河航に幸いしたが、それでも気温は著しく下がってすこぶる身に堪えた。これは我らが夏仕度で外套を持っていなかったからである。
第42回・終わり

URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

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