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No.1890 ノヴィック物語・第41回
投稿者: 志郎 12 Jun 2014 22:31:50
 海岸に沿っての行軍中、われわれはしばしば浮砂に出くわしたが、これはすこぶる薄気味の悪い、かつ危険なものであった。貨幣を落とすと速やかに砂に呑まれてしまう。われわれは多数の河流を横切らなければならなかった。そして徒渉のできない場合には、小舟を得るか、あるいは筏を造る必要があって、少なからず遅延をきたした。われわれはなお数台の荷車を有していたが、これがまたすこぶる厄介の種で、クルマは絶えず泥の中にぬかり着く、馬を轅(ながえ)から離すことがあると、よくそれが林の中へ逃げ出す。やっと捕まえた時には、もうなにか輓具を無くしている。仕方がないから何とかして輓具を付け替えるという風である。

 3人のコーカサス人の囚徒、彼らは同時にコルサコフの屯田兵であるが、われわれの案内を命じられて精励よく彼らの任務を遂行した。われわれは一夜アイノの村に泊まったが、そこでわれわれのために用意された小屋を発見して驚喜したものだ。(我が艦長は数日前、その小屋で夜を過ごしたのである)この小屋はだいぶん清潔であるばかりでなく、悪虫は一匹もいなかった。理由は小屋の持ち主が自らこれを使用せず、日本の漁夫に貸していたためだとわかった。
 この村で近々祭礼の用意に十分太らせてある5、6匹の熊を見た。祭にはこの近在の人民が多数集まってきて、木の檻から一匹ずつ熊を取り出し、勇士が出てこれに立ち向かい、相撲を取り、熊を投げつけ、縄で縛りあげた後、矢をもって射殺すのであるが、その間仲間の者どもは、周囲を取り巻いて歌いつつ躍るのだ。そしてこの格闘で負った傷は盛んに持て囃されるのである。(イオマンテそのものであろう)

 その後数日にしてわれわれはセラロコ村に達した。ここからはわれわれが使えるような小道ひとつとてない。この村に関しては、私はただ一つのことを覚えているばかりである。われわれが到着する前夜、陸軍屯営の管理に任ずる下士官の情婦が、鹿弾をこめた鉄砲で一人の兵卒を射殺したという。サガレンでは人殺しは毎日ある。我が舎営地中の8カ所までもが、ごく最近このような惨劇の舞台となった。

 われわれはまたも焼き尽くして捨てられた村落に独り住む移民のところへ来た。彼は金がなくなれば、なあに誰かを殺すまでですと、平気でわれわれに話した。この男は一隊の長となり、南部ロシアで罪の数々を犯した男で、今の住家ではしばしば逃亡した囚徒に襲撃され、彼の小屋の周壁には無数の弾痕が跡を留めているのだが、60になっても根が屈強の男ゆえ、いつも相手を征服し得たのである。

 セラコロ(前々段のセラロコと、どちらかが誤りなのだろうが決め手はない。現在の地名は不明)からは真っ直ぐにタイガを横断するしかない。困難になる行軍を見越して、24時間の大休止を行なった。次回の宿泊地はチョコボロナイのアイノ村である。同地からは二つの道路が走っていて、ひとつは森林を抜け、もうひとつは近道ではあるが海岸伝いで、馬や荷車の通行が不可能な岩石その他、各種の障壁物が道を塞いでいる。私の率いる支隊は後者を選んだ。途中、豪雨に降り通され、私は以前囚徒であって、我らの一行に加わった者から、一人の老囚徒の衣物一襲(ママ)を借りることができて大いに喜んだ。

 次の行程は森林を通じて20マイル、この地方の様子がどんなものなのかの概念を与えるために、次のことを話すとすれば、この20マイルの間にわれわれが徒渉した河流は大小合わせて147もあった。これら河流の険しく、また滑らかな岸は甚だ難儀で、特に駄獣はこれに苦しんだのである。枝もない幾千本もの巨木は、草一本も生えない沢地から直々として天を突き、風物うたた荒涼を極めている。
第41回・終わり

URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

No.1889 ノヴィック物語・第40回
投稿者: 志郎 10 Jun 2014 22:53:07
 旅行の準備は、約10日間われわれをコルサコフに滞留させた。この間に得られるだけの荷駄獣、荷鞍および袋類を集めるとともに、ビスケットなどの貯蔵品も用意した。8月30日、8名の士官と270人の兵員からなる我が旅隊は、駅逓道路に沿い、楽隊を先頭にして出発した。このとき以来我が楽隊は絶えず奏楽を続け、一時間の間たりとも楽器をその手から離すことはなかった。
 ほとんどすべて特科兵である45名の兵員は、まず第一に残骸から大砲を取り外し、次に何であれ取り外す価値のあるものを陸に移し、かつ警急の場合には艦体を破壊するためとしてコルサコフにとどまったが、この艦体の破壊は、後に日本軍がサガレンに上陸した時、実行されたのである。

 コルサコフを隔たること45マイルになるソロヴィエフの小村において、われわれは遠くここまでわれわれを見送ってきた人々に別れを告げた。第一夜の宿営地ではがっかりしてしまった。満村これ南京虫、とても想像の及ぶところではない。サガレンは南京虫の一大巣窟であるというのも、あえて過当ではない。私はたいてい戸外を選んで、夜を過ごすのだった。

 ウラジミロフ(ウラジミロフカ=豊原市=ユジノ・サハリンスク)はわれわれの道に現れた最初の大部落であるが、ここには凱旋歓迎会がわれわれを待ち受けていた。程よくこの予報に接したので、村から半マイルほどのところで停止し、行進の最も上手なものを隊の先頭に配置し、荷車がこれに続き、最後に主隊が担銃でこれに従う。常緑樹の枝で造って「ノヴィックの勇姿万歳」という字を浮かせた厳めしい貼り札で飾られた凱旋門下を、楽隊を先頭に立てて、我が小部隊が通過した光景はまったくよかった。歓迎の辞に関する主客の応対が済むと、各員は村の辻広場に案内され、そこで正式の饗宴にあずかり、士官は村の長老たちに招かれて、手を尽くした歓待を受けた。翌日再びわれわれが、しだいしだいに文華から遠ざかる行軍の途に上った時に、未だ二日酔いの連中も少なくなかった。

 行程は日々いとも単調な形で相次いだ。黎明と共に出発し、日程15マイルを越えない以上は、一気呵成に踏破するのが常であった。そうでなければ旅程を二段に分かち、後半部は夕方になって出発を開始した。私はたいてい他の人々に先立ち、隊が舎営に付いた時、食事を用意しておく必要がある料理人と連れ立って、前夜のうちに出発することにしていた。第二日の夜は、小さな谷の底、小滝を林の中から迸り出るちょっとした早瀬の岸に建てられた一軒の水車小屋に泊まった。

 昨日、そこで人殺しがあったという。ある労働者が、嫉妬から13歳になるいたいけな少女を殺害したのだそうだ。むごい話だ。それで巡査が到着するまでは誰もあえてこれに触ろうとする者がいなかったので、われわれは喜んでその小さな骸の傍らで一夜を過ごした。翌朝コルサコフ地方長であるZ氏が、水車小屋に到着した。彼は管下の視察旅行中だと標榜しているが、その実、日本の巡洋艦が怖くて逃げてきたのだ。この地点から駅逓道路は変じてただの細道となり、この小道はやがて海に入り、その形跡は砂浜に湮滅してしまう。

 われわれがグレートトコイと呼ばれたその風光の良い水車小屋を後にして出立したのは、例によって夜であった。18マイルの道を豪雨に振りとおされて、ガルキンウラスキー村に達した時は、肌までグシャ濡れ(ママ)になっていた。誰も戸を開けてわれわれを入れてくれる者がない。ついに監獄の看守に頼んで泊めてもらった。翌朝われわれはガンガス(日本の大型漁舟)を2隻手に入れることができた。これに糧食の幾分かを積み、足傷を発した兵員を担任者として乗組ませた。こうしてこれらの兵員はこの先、われわれの宿営地であるべき数カ所の場所に、屯営を設ける命令を与えられた。
第40回・終わり

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No.1888 ノヴィック物語・第39回
投稿者: 志郎 08 Jun 2014 22:33:51
第9章
サガレン縦断

 わが兵員の一部は民家に、一部は営舎に宿を割り付けられ、士官一同は一私人の家に落ち着いた。負傷者は病院に収容され、そのうち2名は大手術を受けた。市医ウラジミロフは全力を挙げて注意を彼らの上に傾倒したが、彼らは壊疽に陥って死んでしまった。これは畢竟、病院の設備が甚だ旧式だったことに起因するのである。コルサコフには確かに一人の軍医がいるのであるが、この人は紅顔の美丈夫で、本職のお医者より音楽にはまり込んでしまっていた。

 本艦の軍医リヴィッチンは旅順脱走当時に手に負傷して、その様子は私も見て知っていた。そのため自らメスを執って手術をすることはできなかったが、医師ウラジミロフが、初めは腕、次は足と、手足切断手術を行った時、これに援助を与えるには差し支えなかった。そして彼はまた、この手助けをするのに、さも造作無げに自分が包帯を受ける番を待つ間の片手間仕事と言った風で、他の患者の愁訴呻吟などいっこう聞こえないような様子をして、さっさと働いていた。

 私の記憶に誤りがなければ、スクリドロフ提督は、われわれが擱座を果たしたすぐ翌朝、わが艦長に直ちにウラジオストックへ来るべきを電致し、そしてそこには装甲巡洋艦グロモボイ艦長の職を貴下のために空けて待っていると言って寄越した。ノヴィックの将士は陸路ウラジオストックへ赴くことになったが、この旅行は長くかつ物憂いであろう。当地からアレクサンドロフ(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)まででも400マイル、一行の糧食給与の問題だけでも軽い仕事ではない。われわれの前途には、蕪凉の荒原、陰湿な森林の大地域が相次いで横たわっている。この森林はタイガと呼ばれ、駅道たちまちここで細くなり、見分けもつかない小道となってしまい、人煙絶えてときたま脱走した囚人が旅人を驚かすことがあるくらいである。

 一行のために、かくも斡旋奔走してくれた親切な人士の感情を損なうことを恐れなければ、私はサガレン及びその住民に関しておもしろいことを話すのであるが、ともかく名は抜きにして、これだけは言っておかなければならない。いったいサガレン政庁の役人は、わけて他の所よりも、国家の利益に対し、また己が認知の開発にも甚だ冷淡な風がある。漁業問題の如きはその好例だ。

 本島においては、日本人は漁業経営の権利は、その何であるかを問わず、これを有しない。ところが彼らはその経営を行なっている。なぜかと言えばその方法は次のようなものである。彼らは役人に金を払って漁業の一時的許可を受ける。役人はよろしくその金を着服して目を閉じ、日本に輸送される魚類に対しては、いっこうにわれ関せずを決め込んでしまう。これにより何ら報酬を得ることなく、ロシアが日本の全北部を肥やした所以である。万事がこの筆法で処理されてゆくので、この植民地は速やかに滅亡へ向かって進みつつあるのである。

 ロシア人中には、クラマレンコ人を除いては、現場で適当に、世界に名だたる豊富なこれら漁業を営む者は一人もいない。このクラマレンコ人は、政府から補助金を受けているにもかかわらず、この事業を日本人の手に渡すのを、結局簡単かつ一層の利益のあるものと考えた。しかるにクラマレンコ人は、なお他に所得財源を持っている。その代理人は、煙草の小包のいくつかや、ウオッカの4、5本で、土人から黒貂(てん)の皮を買い、これを莫大な黄金で毛皮商に売るのである。

 われわれが上陸して24時間を経た時、第二の日本巡洋艦が出現した。多分これはわれわれの戦闘中、宗谷海峡を警戒していたものであろう。その敵艦は弾を惜しげもなく使用して、ノヴィックを粗め篩(ふるい)にするような贅沢に耽った。かくて煙突と上部構造物を残した小軍艦の破壊は完了した。そこで今度は、方向そのまま、ただ照準を高め、害意のない小村落を砲撃した。最後に去りゆくに臨み、海岸を散歩していたわが兵員のあるものに向け、数発の砲弾を見舞った。
第39回・終わり

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No.1887 ノヴィック物語・第38回
投稿者: 志郎 06 Jun 2014 22:58:23
 それから負傷者を起こしはじめた。一発の砲弾が、およそ十人を斃したのである。やがて舵機室に海水が浸入して、状況が甚だ良くないのを聞いた。今や艦は艦尾を幾分か沈下させるとともに、一方に傾斜している。一機関員は下から昇ってきて、さらに2缶を締め切らなければならないと知らせてきた。これで合わせて6缶がダメになった。速力は半減してしまった。(ノヴィックは3軸12缶を装備)前進不可能になるのも、もう間もないと感じるに至った時、艦の後部における海水の上昇が極めて迅速で、舵取り機械(スティヤリングエンヂン=原文)がもはや作動しないとの報告が下部からもたらされた。

 舵がなくては、戦闘はおろか、前進するだけがやっとだ。艦尾楼はいわば廃滅に帰した。ただ2門の大砲が残っている。しかもこの大砲たるやかすり傷も追っていないというのは奇蹟である。そして熱火の砲戦を続けている。この砲は二、三の砲員を除いて、ことごとく掃射されてしまっている。手近に居る者は誰彼を問わず、死者の空位を補充した。しかしどうにも驚いたことには、本艦の悲境をよく知っていたはずの敵は、その砲撃を激しくする代わりに、まったく打ち方をやめ、全速力で遠ざかってしまった。

 数発の弾丸をもって敵の退却に敬意を表した後、本艦も破損個所の修理をするため、わずかに片舷機を使用して、ビッコを引きずりながらコルサコフに取って返した。このときに舵機室を満水にした海水は、やがて士官室を襲ってきた。港に達する望みも今や不安となったので、万一の場合にはせめて乗員を救い得るように、できる限り海岸に接して航行した。ともかくもなんとかコルサコフに到着することはできた。
 投錨と共に直ちに損傷の検分に取り掛かったが、ああ一縷の望みだったノヴィックを救う方法はなかった。浸水を排除するのすら不可能であり、吃水線下の無数の弾孔は、一夜のうちにその修理をするなどわれわれにとってはあまりに手に余るものであった。

 コルサコフは、このような目的に対し、何も設備を有していない。また本艦備え付けの物件もみな破壊浸水してしまっている。2月9日に受けた巨弾の一撃は、本艦を旅順口の乾ドック内に10日も留めたことを記憶している。しかもこの修理工事を完成させるため、いかに職工が叱咤督励されたのかは、とうてい人間の想像以上である。ゆえにこのような状態でさらに他の戦闘に向かったとすれば、それは単なる愚行に過ぎなかっただろう。否、日本軍が我々を攻撃しようとして新手の勢力を加えて再来した時には、艦を動かすことすら不可能だったのである。

 われわれは終夜、敵探照灯の光芒を望んだ。今はただ艦を爆沈させるしかない。詳述すれば、その艦首部を沈めるのである。すでに艦尾部は水中に没していたからである。まもなくウラジオストックの手で、このロシア領域に捨てられた不幸な艦を再び浮揚して、安全な場所に曳き行けるだろうことには、多くの考慮を要しないところだったので、われわれは浅瀬に艦を持ち込み、憐れむべきノヴィックの艦底に穴をうがって沈めてしまった。

 豈はからんやポーツマス条約は、南部サガレンに熨斗(のし)を付けて、栄光赫々たる我がノヴィックの残骸を日本帝国に割譲することになろうとは。翌朝、乗員一同は陸に上がった。返り見れば、我が哀れなる軍艦は、煙突と上部構造物のみがただ波上に現れているだけである。かく成り果てた本艦を棄てて去るのはいかにも残念である。ああ、ノヴィックは苦悶の内に死した。不断の駆使はついに彼を倒し、これを不動の状態に陥らせてしまった。井戸の古釣瓶、ついにバラバラに散ったのは、最後一回の使用が多すぎたのである。

(ノヴィックは後に浮揚修理され、日本海軍の通報艦『鈴谷』となったが、機関は大幅に縮小され、一部推進軸を廃して最大速力は20ノットに止まった。高速を支えたドイツ製機関を回復させるのは困難だったようだ)
第38回・第8章終わり

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No.1886 ノヴィック物語・第37回
投稿者: 志郎 04 Jun 2014 23:55:05
 各々合戦準備に汲々とする傍ら、常に不安の目を敵方に注いで、本艦の対抗するべき敵艦が何であるのか知ろうと試みるのであった。われわれの不確定は長く続かなかった。今、眼底に映じ来れる敵艦は、新高でなければ対馬にちがいなかった。両艦はいずれも6インチ砲6門、12ポンド砲12門を有する。しかるにわれわれのこれに応酬するべき大砲は、ただ6門の4.7インチ砲があるだけだ。われわれの形勢はすでに劣勢なのに、さらに敵の一艦が宗谷海峡方面から向かってきているとわかった時、非はさらに非を加えたのである。

 本艦は全力を挙げて避航しつつあったが、距離は刻々短縮して、敵の艦影が速やかに水平線上に見えだした。同艦はいまや肉眼でもはっきりと認められ、望遠鏡を用いればその上甲板にいる兵員も見ることができた。急に針路を転じれば、敵の舷側はたちまち小さな炎を吐いた。本艦は使用し得る各砲を用いて直ちにこれに応えた。サイコロは投げられたのである。

 例によって敵の最初の数発は遠弾であった。しかし敵は速やかに射距離を捉えた。そして第一報告は下部から伝えられた、「先任大尉室に敵弾炸裂!」と。声に応じて補索手は現場に駆け付けたが、このとき遅くかのとき速く、さらに第二の報告がきた。いわく「下甲板に一弾炸裂!!」。その声が終わらないうちに、さらに第三弾が士官室に炸裂したという報告を聞く。われわれはなお砲戦を続けたから、承帆長の率いる一隊は、同時に三カ所で働かなければならなかった。我が包含も着々と敵に命中するのを見るのは、大いに満足するところであった。本艦は上部構造物になお数個の敵弾をこうむったが、未だ吃水線下には一発も受けず、このときまでは一人の死傷者も出さなかった。

 我らがさらに勇気を奮い起こしたのは、たまたま二個のボイラーのチューブが破裂したという不幸な報告が機関室から来た時であった。同時に我が速力は著しく減じた。私は我が艦のなす術無きを腹立たしく思うところひと通りでなかったため、極度の抑圧を感じて歯ガミをなしつつ……チェッ、この意気地なし……ああ、この怒りは誰に向かってもらすべきか、願わくば一道の忿炎を集めて敵を焼き尽くしてやりたかったのである。

 艦尾楼を飛び越した一小弾は、後部砲の射手を真っ二つに切断し、その砲員の2名に重傷を負わせた。私は内心「厳しくなってきたぞ、いつ俺の番が来るかわからん」と叫んだ。が、しかし習慣の力で、私は続けて諸般の号令を下していた。非戦闘側砲の射手は、倒れた射手に取って代わって、その屍を片寄せもせずに、己が戦友の復讐を報ぜんと、落ち着きはらって弾また弾を発射した。
 突如、わが背後に恐ろしい爆発が起こった。と、同時に、私は頭をやられたと思うとともに、鋭い痛みを脇腹に感じた。呼吸がひっ迫する。こりゃてっきりほとんど真っ二つにされたかなと感じた私の目は、本能的にどこに倒れたらよいかと場所を探している。

 次第に呼吸が回復すると、私は頭だけ酷くケガをしただけで、体はほんのわずか打撲をこうむっただけだとわかった。死傷者が累々として私の左右に横たわる。種々の呻き声が耳に入る。私の傍らにやってきた同情に満ちる鼓手は、「あなたは脳をお無くしになるところです」と耳打ちした。もしこれが他の場合であるなら、私は微笑をたたえたであろう。脳がなくなって、どうして本当に正気でいられるものか、頭を撫でまわしてみると、生暖かい柔らかなものが手に触れた。血の大きな塊だったに相違ない。別に痛みもしないので、私はハンカチを取り出して、自分で自分の頭に包帯を巻いた。
第37回・終わり

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No.1885 ノヴィック物語・第36回
投稿者: 志郎 02 Jun 2014 23:37:54
 当時まで、ノヴィックを加護してくれた幸運が、本艦を見捨てるに至ったことをもって、われわれはその目的地に達することが叶わなかった。われわれが千島列島に接近した時、残り少ない石炭はただわずかにコルサコフ(サガレン島=樺太の南端にある、日本名大泊)に達するのがやっとであることが明瞭になった。しかし同地まで行けば炭庫を満たすことも可能だろう。
 本艦の針路はわれわれをして、日本が千島列島に建設した灯台に接近させた。われわれは白昼その傍らを通過しなければならなかったが、海底電線が本土と連結されていることが確実であるから、これはすこぶる危険だった。一時停止して夜間の通過を待つことができなかったのは、石炭が不十分だったためである。ゆえにわれわれは、どうあっても前進しなければならなかったのだ。

 たまたま霧が襲来したので、灯台はまったくこれに包まれてしまったが、本艦がこれをかわしつつあった瞬間に、一時霧が晴れたので、灯台の看守が目前にわれわれを見たのは、あたかもその掌にこれを載せて眺めたのも同然であった。われわれが懸念した通り、看守は直ちに電信機に駆け付け、そして時を移さず敵はわれわれの追跡を開始したのである。
 コルサコフに達するや、一刻の猶予もなく石炭積に取り掛かったが、これに対して何も用意ができていなかったことは言うまでもない。われわれの到着が予期されていなかったことを考えれば、これももっともなことであった。故にわれわれはまず運搬車に積み、これを線路で波止場まで押してきて運貨船に投じ、本艦へ曳航しなければならなかった。この仕事の監督は私が分担することになった。

 初めてこの土地を踏んだ時、我が総身に染み渡るそののんびりした安泰の感は、これを言い表すべき言葉を知らない。波上憂心の8日を過ごして、今や少なくとも問題の一部が解決されたことを知り、ウラジオストックがわずか数時間の距離にあることを確信し、一度そこへ到達してしまえば、ノヴィックは再び野獣の如く狩り出されることは永遠になくなるのだと考えつつ、今一度ロシアの領土を踏むことは、人の心に無邪気な喜悦を溢れさせるのだ。誰か不足などと言う者があるだろうか。

 南部サガレンの豊裕なる植物は、さらにこの感を深くさせた。明らかにわれわれと共感したわが兵員は、熱心、否、むしろ快活の態度で、この無味乾燥な作業に従事した。仕事はあらかた片付き、ただ後2隻の運貨船を本艦へ曳いて行けばそれでおしまいという時に、突然本艦から信号があった。いわく「本艦の受信機は敵の無線電信を感受しつつあり、総員を率い万事を放擲して帰艦せよ」と。ハッとするとあたかも、何か知らず自分の心中が崩れ落ちたような心地がした。

 すぐに私は、万事休す……ということを知って、喜悦はたちどころに苦い失望へと変わってしまった。未知の敵に対するこの逢遭の如き、かかる一六的な企画にあたろうとして、目を喜ばすこと比類のないこの小天地を去ろうというのは、いかに辛かっただろうか。日本軍艦が無線電信を送りはじめた時から、彼らが2隻以上であることが証明された。1艦ならば無線を使用して自分と語ることはないからである。何隻だろうか、一対一ですら日本巡洋艦は皆、ノヴィックより強い。いわんやノヴィックは、チューブの破裂によってその速力の幾分かを失っている。

 コルサコフはベニボ湾底に横たわり、まさしく海上の袋小路で、その地勢は進出する外に道がなく、ここから逃げおおせるのは極めて困難である。ああ、最後の幕は甚だ間近にある。こうした悲観の念の我が脳裏を往来しつつあった間に、兵員は皆、乗艇した。それから数分の後、カッターはノヴィックの舷側に横付けされ、本艦は直ちに抜錨、艦首を水平線上の煤煙に向けた。形勢がいかに容易でないものか、各乗組員が看取していることは明らかで、普段の揶揄諧謔は少しも見られなかった。
第36回・終わり

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No.1884 ノヴィック物語・第35回
投稿者: 志郎 31 May 2014 23:29:49
 この現象の依って来たる所を了解するのに苦しんで、私は機関長にその説明を求めた。彼は、石炭の消耗は蒸気の消耗に比例し、蒸気の消耗は推進機械と蒸発機械との適量に作動するかどうかに比例している。けれどもこのような大洋にあっては、その適否を検査することができないと説き明かしてくれた。それゆえ石炭欠乏の剣は、八日間一毛の懸垂するところとなって、われわれの頭上にあったのである。果たしてウラジオストックに達し得るのであろうか。

 石炭の消費量を減じるため、あらゆる手段が行われ、すべての補助機械、たとえば通風機、発電機の如くはことごとく停止された。ペンキの混じった糸くず、油に浸したオークム、木材の果てまで焚いた。約言すれば、本国の海岸に達するためにあらん限りの方法が尽くされたのだ。士官の中にはメータル島(不明)に寄って材木を一山積み込めばいいなどと言い出すものもあった。
 はじめのいらだった不安の幾日かに続いたものは、今度は全然平気の期間であった。われわれはいわゆる煉獄内で、諦めてその運命を待つ亡者の如く艦内を彷徨した。何か仕事に携わっている者は、ただ機関員ばかりである。距離を短縮する目的を持って、われわれは可能な限り海岸に沿って航行した。そして横浜を一望の内に収めて通過するに及んだ。(訳者注・これは何かの誤解だろう)

 そうなればわれわれは、当然に望楼の報告するところとなり、追跡されるのを覚悟した次第だった。ある時はわれわれが出くわすかもしれない石炭船を停め、その積荷のいくらかを徴発しようかとまで考えたのだが、日本沿岸を目前に控えて、これはあまりに大胆と言わなければならない。もっとも一度津軽海峡を通過すれば、われわれは決して再び敵の海岸を見ないのである。

 気がつけば私は、すんでのところで、わが駆逐艦1隻を随伴したディアナとの出会いの幕を語り漏らすところであった。(ラスプラタ238頁以下)水平線に二筋の煙を見付けて私たちは配置に就いたが、やがてその駆逐艦が味方の1隻であることを確かめ、その2隻に接近した。わが艦長はわれわれがウラジオストックへ赴く途上にあることを信号し、かつ相伴って同地へ行くことを提案した。ところが同艦はまったく返答することなく、ディアナと駆逐艦は知らん顔で南方へ向けた針路をそのまま進んで行ってしまった。

 これに関して私は、新聞記者パルフェノフの記事に言及しようとするものである。この男は、他の諸艦が行ったように、中立港へ赴いて武装を解除する代わりに、かかる小軍艦をもってウラジオストックへ向かったことについて、不謹慎にもわが艦長を非難した者である。われわれにとっては、ドイツ国旗の下にある膠州に滞留するのが最も楽な道だった。然りと言えども私は躊躇なく言う、いやしくもわがノヴィックにあっては、上は艦長から下は水兵に至るまで、一人もそんなことを望んだ者がいない。

 鷹が出現したからと言って、母鶏両翼の保護下に潜む雛鶏の如く、敵から隠れているばかりなのは、われわれの眼から見れば怯懦な行為なのである。敵の優越が大きく、これ以上何等抵抗が不可能なほどであるのが看取でき、何人も旗を撤するのを妨げられないのであれば、直ちに降伏するのもよいであろうが、そんなことは断じてできない。中立港において自艦の武装を解除するという行為は、実に無能の表白ではないだろうか。旗を撤するのと、武装を解くのは、同一事である。ただ以下のような重大な差異がある。すなわち降伏は大洋の上、敵弾の下にあって、中立港の安全な水域に居ないというだけなのだ。

 提督ネボガトフは、艦隊を敵に渡したという事実をもって、まさに審議に問われようとしている。しかも私に言わせれば、マニラの安全な避難場所に向け、戦場を棄てることで、その髪膚を全うした彼ら怯懦の輩を、劈頭まず軍法に照らすべきである。パルフェノフの攻撃は、私をして怒髪軍帽を突かしめた。彼は中立港へ逃げ込むような偸安盗情を軽んじ、ウラジオストックへ進むべき叡智を奉じるのに忠なる理由をもって、新聞紙上万人の眼前にわが艦長を架刑にするほどの無礼をあえてしたからである。
第35回・終わり

URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

No.1883 ノヴィック物語・第34回
投稿者: 志郎 29 May 2014 21:30:50
 ウラジオストックに達しようというのならば、どこかで石炭を積まなければならないことが、われわれにとって絶対的に必要だった。この言葉を聞くと驚く人が多い。そして私は、旅順を出たばかりで早くも石炭の欠乏を感じたとはいったいどういう理由かとしばしば尋ねられ、艦長はあらかじめ注意が足らなかったものとして、一般に悪く言われるようになった。

 けれども弁明は極めて簡単である。抜錨に先立ち、われわれは炭庫に満載した。が、その量はおよそ500トンで、大まかに見積もったところ全速で24時間航走できるのであるが、われわれはすでに15時間走り通し、うち7時間は全速であったから、残余の石炭ではウラジオストックに達するに充分ではないわけである。経済速力であれば、われわれはおそらく同地へ到達できるだろうが、当時は絶えず敵のいずれかに出会う機会があって、そうなれば直ちに全速力で前進しなければならなかったからである。

 石炭満載の必要に迫られて、艦長はドイツ領の最も近い港へ向かおうと決心した。ドイツ人ならば、われわれを歓待してくれるアテがあった。そこでただちに膠州に達し、必要な公式手続きを終わるや否や石炭積みを開始し、徹夜で作業を継続したが、夜明けになっても炭庫一杯というわけにはいかなかった。しかし規則は日の出前にわれわれの出港を要求した。
(原注・この話は何かの勘違いに基づくものと思われる。国際法の規則の最も厳正なる解釈によって許される最短の期限は24時間である。察するにノヴィックは、敵のために同港内に封鎖されるのを避けようとして、このような早朝に出港したのだろう)

 こうしてわれわれはウラジオストックへの途上、今一度朝暾(ちょうとん=朝日のこと)を外洋に仰いだ。対馬海峡は敵艦で物騒、本艦はその無線電信を感受したから、われわれは日本を迂回することに決した。本戦役に関する私のすべての追懐の中で、この航海の思い出は確かに最も痛ましいものである。堪えきれないような日、憂苦の夜、常に合戦の準備に立って、望みの港に達する前に石炭を燃やし尽くしてしまうのではないか、そうなれば浮木のように海上に漂うか、もしくは敵の海岸に擱座するか、二者いずれかの道を選ぶしかなくなる想像をし、去来する不安の念を胸に抱いて、一日また一日を送ること10日の長きにわたったのである。

 こういえばある人は、いったい軍艦では日々の燃料消費を正確に計量でき、したがって炭庫の現在高も正確に計れるのだから、これにより本艦がなお航海できる距離を容易に計算できるはずなのに、このような不安を抱くのは奇怪千万ではないだろうかと言うだろう。確かに平時においては真にもっともなことなのだが、過労7カ月に及んだ本艦のボイラーは、各種公称要目に信を置けなくなっていたのである。

 当時の状況がどんなものであったかを正確に言明するのは、すこぶる聡明な士といえども難しいところで、一例を挙げれば、公試運転においてノヴィックは、最も経済的な消費量を一日30トンと認められた。これに基づけば、1時間10浬の速力でウラジオに達するのは易々たるものである。しかるに甚だ不快な驚きがわれわれの上に発生した。第一日において50トンを焼尽した本艦は、第二日には55トンに増し、第三日に至ってはさらに58トンを煙にした。この例を追っていけば、われわれが日本北方の海峡に達するとともに、炭庫が空になるのは明らかである。
第34回・終わり

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No.1882 ノヴィック物語・第33回
投稿者: 志郎 27 May 2014 22:19:48
第8章
ロシア国旗の下におけるノヴィックの末路

 諸戦艦まさに兵を収めて艦首を旅順に向けた時に、巡洋艦隊旗艦アスコルドは信号を掲げて麾下の諸艦に「旗艦の通跡を進め」と命令した。われわれはその意図がどういったものであるのかを知らなかったが、同艦の指揮下にあるので、直ちにアスコルドの直後に占位した。我が司令官は、まず戦艦隊を巡って一円周を描いたのち、屍の香餌に誘われた肉食鳥の如く、戦場を取り巻き始めている敵駆逐隊に向かい、全力で突進した。

 われわれが接近すると彼らは避散したが、その後へ敵の巡洋艦が代わって現れた。もし私の記憶に誤りがなければ、本艦はアスコルドに続航していたので、右舷に1隻の一等巡洋艦、左舷には艦型を異にする5、6隻の他の巡洋艦を認めた。太陽は水平線に近付いて、寄せ来る闇は血路を開いて逃げるわれわれを助けるようだった。けれども確かに勢力の不均衡はあまりにも明らかで、われわれが胸中に抱く望みの微光はややもすれば打ち消されようとしている。初めディアナとパルラダはわれわれに続航しようと企てたが、直ちに断念してしまった。これは彼らの速力不足に起因するところである。

 アスコルドの幸運な一回の斉射は、我が右舷の敵巡洋艦を制して、本艦を追躡することを中止させた。他の敵艦はわが艦隊から見える限り、我が方面に向けて乱射乱撃弾雨を送ることを断たなかった。しかし日頃の幸運がなお本艦を見捨てなかったゆえに、距離が近かったにも拘らず、何等の損害も被らずに逃れ去ることができた。しかしこの時に艦上に炸裂した一弾は、2名の兵員を倒し、軍医官を傷つけた。この人は不運なことに、ただちょっと景色を見るために艦橋へ上がったばかりのところをやられたのだ。始まってから1時間以上にもなるこの立派な高力運転を見る機会を逃したら、実に残念だっただろうなどと言っていた。

 日本巡洋艦隊がわれわれに追いつけないことを確実に感じるまでは、われわれの神経の興奮はまったく弛緩しなかった。われわれは夕闇が彼らの目からわが艦影を隠し去るまで、敵艦隊が次第に後方へ落ちているのを目撃した。ああしかしこの挿話は、ノヴィックに対する辞世の詩のようなものだったのである。
 近世の汽缶は構造が複雑で、取扱いに多大の注意が要求され、絶えず清掃しなければならず、そのチューブの生命は甚だ短く、すぐに換装の時が来るし、その時には1000本も取り替えなければならない。開戦当時、ノヴィックの汽缶はまさにその定限に達し、チューブ全部の換装を必要としたのである。

 しかし旅順籠城の7カ月を通じて、われわれの行い得たところは、しばしば請求を発した後、長い期間を置いてわずかに数日間の休止を都合し、大急ぎの修理を加えるのが関の山であった。そして実際に蒸気を上げていない時でも、一令の下に点火できるように用意していなければならなかったのである。

 私は事態がこうなってしまうのを仕方がないと認めるが、それでもこの結果として本艦の缶は日々不安の状態を呈してきた。われわれを縊(くび)りつつある砲火の圏内を突破するため、われわれが汽缶に要求した最後極度の努力は、彼らの「止め」であったことを証明した。そして速力こそ万能であったノヴィックの長く続いた死苦の序幕は、実にこの時に始まったのである。われわれにとって最も都合の良い時に夜が来た。なぜならば、まったく暗くなるかどうかという時に、復水器内に海水が浸入したため、ノヴィックは機械を停止せざるを得なかったからである。
 このとき本艦は、アスコルドを見失った。本艦と同行してほしいという信号を発したが、彼はわれわれを運命の手に委ねて行ってしまった。後日その艦の将校の話によれば、アスコルドは決してノヴィックよりなんら信号を受けなかったという。
第33回・終わり

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No.1881 ノヴィック物語・第32回
投稿者: 志郎 25 May 2014 21:18:29
 このような偶発事件に対しては、あらかじめこれに応じた準備ができないのはもちろんだが、作戦命令の形式の下には実にその腹案すら存在していなかったのである。やがてレトウィザンは敵に向首して嚮導の任に当たり、あたかも衝突を試みようと重大な決意をしているように見えた。味方の諸艦もレトウィザンの例に倣い、艦首砲火を使用して旗艦を掩護した。
 日本軍は我が艦隊の混乱に乗じ、特にその一団となってしまった状況を見て、機を逸すまいとして急射撃し、迷擾離乱のわが艦隊に霰の如く砲弾を浴びせかけた。新艦隊司令長官旗艦ペレスウェートは、その両トップマストを失ったため、ようやくにして信号をその艦橋の手すりに掲げ、艦隊に旅順へ戻れと命じた。しかしわれわれは、巡洋艦隊司令官である直属の指揮官から、これに反する断固たる命令を受け取ったから、本艦は戦艦隊の後を追わなかった。

 が、それからどんなことが起こったか、私にはさっぱり確かな記憶がない。ただただ日没とともに主隊とは甚だ異なった針路を取っていたことや、旗艦に落ち着く時を与えるため、身を挺して敵陣に暴露し、そのために集中砲火の目標となったレトウィザンの剛勇を嘆称して、満艦の将士茫然自失の状態にあったことを記憶するくらいである。実にレトウィザンはその舷側に爆裂する弾丸の閃々たる焔に輝かされ、一時はまったく煙に包まれてしまったが、やがて列中にその位置を取った。

 当時わが諸戦艦の状態がどのようなものであったかは知らなかったから、私には旅順に戻るこの運動を善悪いずれとも言いかねる。けれどもいわば敵列を突破した後になって言えるところでは、敵艦は1隻たりとも大きな被害を受けた様子がなく、かつわれわれを包囲していたということである。なお、各新聞紙は日本軍が我に航路を開放しておいたゆえ、われわれが成功の美果を摘もうとすれば、ただ手を伸ばすだけで充分だったことが明らかであると書き立てるのだが、事実はまったく相違していて、敵の主力は我に対しウラジオストックへの通路を閉塞していたのだということを、私は付け加えなければならないと思うのである。

 もう一度言う、事実は正反対だったのである。すでに数において優勢な敵に囲まれながら、われわれは水平線の各所に散点して、敵駆逐艦の雲集するのを認めた。さらに勇敢で一層の覚悟がある他の指揮官ならば、あるいは万危を犯してその採るべき道の継続を試みたかもしれないが、悲しいかなウクトムスキー公は常に二流の士と目されており、誰ひとりとしてそのような果決の断行を彼に期待するものはいなかった。

 もとより彼は将官足るべからざりしこと明白であるが、一度その地位を冒した故に、みな将官としてこれを戴かざるを得ず、ネボガトフ流に降伏するよりは、むしろ旅順に退却することをより良いと考えた公の処置に対し、おそらくわれわれは感謝の意を表しなければならないのだろうと思う。人は誰も、他者に向かって英雄たれと命じることはできない。英雄たらんことを望むと言い得るのがせいぜいである。
第32回・第7章終わり

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No.1880 ノヴィック物語・第31回
投稿者: 志郎 23 May 2014 23:27:23
 彼らが新式巡洋艦なる名目に負うところの内容はといえば、ただその「新式巡洋艦」という名ばかりである。最後に述べなければならないのは、これら軍艦の6インチ砲の数門は、陸揚げして海岸砲台に装備してある。またセバストポリの12インチ砲の1門は、尾栓に重大な破損を生じたため、これも陸上に送って、その跡には見せかけに木製のまがい物を据え付けてあるのだ。バヤーンは前に言ったとおり、なおドックの中に横たわっているので、われわれに同行し得なかった。

 ウィトゲフト提督は、とうていウラジオストックに達することはできないという信念を有していたので、出陣の際、一駆逐艦に託して電報を芝罘(チーフー)に送り、いきさつを認めてこれを闕下に伏奏した。同時に彼はその胸中を残らず披瀝して、自分は必ず敗戦して討ち死にするだろうと思うと、幕僚に話したそうである。艦隊司令長官の心事がこのようなことでは、周囲の人々に及ぼす影響は、計り知れないものになってしまう。

 わが艦隊は、災害に遭うがために行くのであるという、固い信念を抱いて出発した。この念が各艦長の上に甚だ面白くない影響を及ぼしたのは、避けようもないことである。日本側は23の戦闘単位を集めた。30隻の駆逐艦はこの計算外である。しかもこれら駆逐艦は日没とともにその数を倍加した。両軍の勢力は単に数の比較だけで、われわれが劣勢なのは万人の目に明らかである。

 共に単縦陣を為して次第に相接する進路に乗りつつあった両国の艦隊は、およそ12時30分に砲火を合いまみえて、ただ一回短時間の休止をした以外には、午後3時に及ぶまで当初の対勢を維持した。そして私が認め得た範囲では、この時間にわが戦艦は1隻も大破したものがなかった。われわれは徐々に針路を南東に取ったが、セバストポリとポルタワの続航が困難なため、しばしば速力を緩めなければならなかった。巡洋艦隊は第二次合戦中に戦列を脱し、戦艦隊の非戦側に単縦陣を作った。彼らは実際、交戦には参加しなかったのである。

 戦闘の初期にあたっては、日本軍は戦列にただ12隻を有していたが、二等巡洋艦からなる数個の戦隊が南方から相前後して会同し、3巡洋艦を従えた老甲鉄艦鎮遠も、同時に北方に出現した。4時30分の頃に至り、敵はその距離を短縮して戦いはようやく酣となり、この時敵弾には命中するものが多く、マストやヤードは砕け、煙突が破られるなど、わが戦艦上にその効果をたくましくするのを見たが、しかし艦体に関しては、われわれが非戦闘側に位置したため、はたして打撃をこうむったのか否か、見ることができなかった。

 およそ5時、旗艦ツェサレヴィチは信号を掲げることなく急に左舷に回頭した。何か大損害を被って、進退の自由を失ったのである。ところがこの運動を、意識して行われたものであると考えた諸戦艦は、旗艦の通跡に入ろうと試みた。すると間もなく、司令長官ウィトゲフト提督戦死、海軍少将ウクトモスキー公が代わって艦隊の指揮を執る、という通報に接した。この間旗艦の運動に追従した諸戦艦は、ツェサレヴィチを取り巻いて一つの密集団を形成している。この時秩序はまったく乱れ、各艦勝手の方向に向首するばかりであった。
第31回・終わり

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No.1879 ノヴィック物語・第30回
投稿者: 志郎 21 May 2014 22:21:09
 セバストポリの将校は、同艦の艦長が自艦を港外に出そうと企てた時、あらゆる手段を持ってその目的を阻害され、果ては曳船すらその使用を拒絶されたため、艦長がついにその1隻を強制的に奪ったということを確言している。この重大な問題は、私の知る限り、かつて提起されたということを聞かないが、これは確かに十分に査問の対象になるはずの問題である。
 軍事会議の決議が太守に進達するに及んで、太守は自己の勢力がとうてい提督の優柔不断を制御できないと見てとり、直ちに極端な手段を取ると、8月9日をもって以下の如き電報を旅順に送った。いわく「朕は艦隊に命ずる。揚錨してウラジオストックへ向かうべし」と。命令を拝して恐れおののくものの、今や出港の準備をするしかない。各艦は徹夜で石炭を積載し、8月10日黎明に運動を開始した。

 当時私が書き止めた記録は、ノヴィックの破壊とともに失われてしまったから、その戦闘の景況すべてを細目に渡って叙述するのは不可能だが、なお発生した事柄の真相を伝えるのにおいて、私は充分に自分の記憶を信頼することができる。そして私の語るところは、各種新聞の記事に現れ、今日まで一般社会の、この戦闘に関して作為された説の根源を為すものとは、おおいにその趣を異にするのである。

 ちょうど6月23日におけるのと同様、港外に出るための困難と遅延とは、その日の結果に悪影響を及ぼした。午前4時、先頭を切ってノヴィックは外港錨地に達した。本艦は水道清掃の命を受けた掃海艇の護衛に任ずるのである。艦隊は極力奮励したにもかかわらず、出港し終わるまでに5時間を費やした。そしてこの5時間は、日本軍をしてゆうゆうその配備を為さしめたのである。もしわが艦隊が午前4時、一斉に抜錨することができたのであれば、敵がその勢力の集中を遂げる前に、すでに彼らを遠く離れてしまっていただろう。わが駆逐隊と芥船、小蒸気とがまだせっせと艦隊の先頭に立って掃海を継続していると、敵駆逐隊が襲撃を行ないかけた。

 この光景を見たわが艦長は、命令なくして位置を離れ、掃海艇の前方に進出して、この五月蠅い敵を追い退けた。我が勢力はノヴィックを加えてその数10隻を算した。しかしノヴィックは武装劣弱、戦闘単位の一として計上される資格がほとんどないものだ。
 戦艦ツェサレヴィチ、レトウィザン、ペレスウェート、ポピエダは新式かつ駿足の艦として中堅を固めたが、セバストポリとポルタワはすでに老齢で12ノット以上出すことができず、そのために艦隊はこの速力を超過することを禁じなければならなかった。もしこの2隻を後方に残したならば16から17ノットも出して、残余の艦隊は余裕綽々、逃亡することができたのである。日本人をして当日の覇を唱えさせたのは、この12ノットである。

 巡洋艦にあっては、普通の装甲艦であるアスコルドがその武装と速力により重きをなしていた。姉妹艦であるディアナとパルラダはロシア製であるが、これはさんざん考えたあげくの平凡な産物で、それほど考えておきながら出来上がったところを見れば、何ら有力な兵装があるでなし、装甲鈑が張ってあるわけでもない。おまけに速力が出ないと来ては、まったく標的にでもなるのが頂上な代物である。
第30回・終わり

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No.1878 ノヴィック物語・第29回
投稿者: 志郎 19 May 2014 22:07:03
 実に太守の言う通りであるならば、われわれはただ港口に鼻を突き出せば充分で、敵は避逃しただろう。しかし事実は決してこのようなものではなかった。われわれは親しく現場で観察を下していたから、実際われわれの眼前に出没した敵艦に関し採るべき解釈の正鵠を誤らなかった。これらの敵艦中には、太守が言うところのすでに沈没したもの、および日本において修理中のものが現存している。もっとも2、3は確かに欠けていた。戦艦八島及び初瀬、巡洋艦宮古ならびに砲艦数隻、しかしこれだけでは均衡を回復すること遠く、天秤はどうしても我が軍の側に垂下し得なかった。少数の12ポンド砲と機関砲を除いて、艦隊の軽砲はすべて陸揚げしてしまい、一方わが最良の巡洋艦バヤーンは、機雷に触れた後未だにドック内にあって修理を受けていたからである。

 太守の命令はまたさらに圧迫を増してきた。ウィトゲフト提督は、提督としていかに悲しむべき境遇にあるかを自覚させるにあたり(少なくとも彼は主張している)、太守に縷述する(るじゅつ=細々と述べる)ところがあったものの、不成功に終わってしまった。そこで彼は海陸軍の先任将校からなる軍事会議を招集した。もちろん私はこの議席に加わらなかったが、出席者のある人に確かめたところによると、その決議案は概括して次のような形式に約言することができる。
「艦隊が旅順を去るのは適当ではない。艦隊の現存は旅順の防御に欠くべからざるものである。それは大砲、糧食、特に人員において援助できるところにある。実に艦隊の乗員は7000人の陸戦隊を編成できるのだ」と。

 これは内緒の話であるが、艦隊が旅順を去るかもしれないということが露骨に出だされた時、ステッセル将軍は愕然として驚き、「余は誓ってこのような行為は恥ずべき逃避だと考えるゆえ、そのような場合には海岸砲台に命じて、艦隊を砲撃しようかと思う」と言ったそうだ。「艦隊は滄溟(海のこと=青海原)の上、その成功の機運を捕捉しようとするのが任務である」という理由を掲げて、断固として調印を拒絶した二人の海軍将校を除いては、列席の各員みなこの議決庵に署名した。

 この二人が誰かと言えば、一人は戦艦セバストポリの艦長フォン・エッセン大佐(以前はノヴィックの艦長だった)で、もう一人は砲艦オトワヂヌイの艦長ラザレエフ中佐(以前はフォン・エッセン大佐の副長だった)である。この二人は与論が認容した見解と相容れることなく、ついに籠城の終わりに至るまで、その本来の主張を持続した。その後起こったことを追懐するに、真に悲しむべき結末に到達したのである。

 開城の当時、旅順に現存した総艦船は、自ら防衛することのできない港内に蟄居するのを拒んだ2隻を除き、みな敵の攻城重砲の撃沈するところとなってしまった。この2隻こそすなわちセバストポリとオトワヂヌイであって、その艦長たちは軍事会議の決議に反対し、危急存亡の時にあたり、能く自艦を無用の壊滅から救い出して外港に出でて、長く敵の魚雷襲撃に抵抗した、ただ二人の俊傑である。

 自港内に沈没する我が戦艦を見るという恥辱を避けるために、外に取るべき道はあっただろうか、艦長たちは本当に海上に進出することができなかったのであろうか、この罪過はあえて意識することがなくても、自らこれを考えることはなかったのだろうか、いたずらに装甲鈑の背後に自らを隠匿するのに汲々としていたばかりではないのか。思いがひとたびここに至れば、私は未だかつて暗然として、心痛まないことがあろうとは思えない。
第29回・終わり

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No.1877 ノヴィック物語・第28回
投稿者: 志郎 18 May 2014 00:06:47
第7章
8月10日の海戦

 8月初旬、日本軍はその4.7インチ攻城砲を狼山(ウルフヒル)の上に設置するや否や、直ちに市街及び内港泊地の砲撃を開始した。敵は大砲据え付け位置を我が軍に見定められるの避けるため、射撃はただ真昼間のみ施行した。われわれは極力これを窺知しようと努めたが、どうしても成功しなかった。午前正7時というと必ず第1弾が飛んできて日没に至らなければ止まない。旅順全市中たとえハンカチ大の土地といえども、未だ彼らの榴弾の探訪に与らなかった個所はない。

 これにより、特にその被包囲の初期に、陽気という部分が市中から消え去ったわけがわかるだろう。敵の主要目標は、周囲に工場、造船所、貯炭所などを有する東港にあるらしく見えた。われわれの普段の碇繋所は、まさにこの貯炭所の真横にあたっていたから、(敵はこの石炭山を燃してしまいたかったのであろう)午後になるとわれわれは、いたずらに手をこまねいて返報もできない打撃を待ちつつ、情けない日々を送った。

 敵弾はついに提督が、本艦の位置を変更させようと決心したほど、盛んにかつ近く落下した。本艦がやっと旧位置を去ったばかりの時、一弾が飛来して今まで横付けしていた波止場の石の上面を打ち、非常な孔をあけた。翌日我らが本艦の豪奢なる料理に惹かれた二、三の客と共に、ちょうど食卓の座に着いた時、当直信号兵が士官室に現れ、すこぶる真面目に先任大尉に報告した。いわく「榴弾が頭の上で破裂します」、「じゃ、健康を祝すにはちょうどいい」と、一同はどっと一度に和した。そこで皆がコニャックを一杯だけ余分に傾けた。まったく君、外にしようがないじゃないか。

 機雷の危険を除いては、外港泊地にいた方が大いによろしかったに違いない。かつそこにいれば発射する大砲の恐ろしい響きや、爆発する榴弾の音に耳を苦しめられることもなかったのである。ゆえに外湾に向け機械をかけて狭い港口を通過するときはいつも、やれ助かったと溜息を吐いたものだ。しかしこの港口通過の5,6分というやつが、どうしてなかなか危険極まる。私は前にも述べたと思うが、日本軍は我が貯炭所めがけ、いつも違わず5発続けて発射するので、第1弾の落達を見定めると、次はどこへ落ちるか予言することが極めて容易だった。

 ある日出港のみぎり、本艦がちょうど内港口にかかって、端から端までいっぱいに入口を塞いだ時、例の第1発が市街に落下した。第2発は港務部に届いた。3発目は上陸場を打った。そうなれば4発目は内港である。しかるに本艦の後半部は未だ危険地帯を脱していない。口にこそ出さないが誰も彼も今や我らに向けられた砲弾はすでにその砲口を離れ、空を縫って飛来しつつあるのを想像し、固唾を呑むばかりの不安な数秒は、まさに千秋の感があった。
 ようやく両岸を後にしたとき、本艦の通った跡で艦尾をわずかに4ヤード離れただけのところに、この悪魔の弾丸は鋭い響きを伴って落下した。息を殺した不安の時間に対する反動で、兵員たちは罵声を発しはじめた。「ジャップの豆鉄砲打ちめ!」

 7月の終わりころ、出港の上日本艦隊を駆逐しろという、提督に対する太守の要求はいっそうの脅迫を加えたが、日本海軍に対して太守の与えた情報は、はなはだ取り止めのない珍奇なものであった。いわく日本の諸艦はあまりにも過度に使役され、本国では彼らのすべてを収容するドックが足らないほどである。彼らの重砲の施条は著しく腐食してまったく精度を欠くに至った。また人員に関しては下の如くに言っている。封鎖の過労は彼らの心身を消耗し尽くして、もはや何物も彼らに期待できなくなったと。
第28回・終わり

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No.1876 ノヴィック物語・第27回
投稿者: 志郎 15 May 2014 23:03:42
 ポルタワも直ちにこれに応酬したが、その砲弾は半分しか行かないところで落下してしまった。バヤーンもまた艦首8インチ砲を仰角いっぱいにして発射したけれども、弾は標的に届くのはまだまだである。これが、戦艦1、巡洋艦4、砲艦4からなる堂々たるロシア艦隊が、たった2隻の日本巡洋艦の前で逃げを打つしかなかった理由である。かかる状態の下に戦闘を継続しようとすれば、それはまったく無益な所業だっただろう。

 もしわれわれが敵に接近しようとすれば、彼らは速力において我らより優れているから、退却しつつ我らの大砲の射程に入れないようにして、確実に彼らの砲火の下にわれわれを置くに決まっている。だからといって錨を打ったままでいるのは最不得策であったのだ。このように射程外に置かれるということは、全戦役を通じてわれわれを苦しめたこと、並大抵ではなかった。レトウィザンやツェサレヴィチのような我が最新式の戦艦ですら、なおこの点に関しては日本軍に劣ること数等であった。

 この頃に至って糧食欠乏の嘆声がけたたましくなってきた。ところがその一方でウオッカはすこぶる豊富で、この毒を荷詰めにした箱は、小山をなして東亜会社の埠頭に堆積されていたが、これはついに用い尽くされないままになった。それと言うのもステッセル将軍が呑んだくれを罰すること峻厳を極め、かつ酒気を帯びたものがあればたとえ将校であっても一切仮借がなく、軍法会議に付して処断すべしと公表したからである。これと同時に将軍は籠城期間を通じて、市中における物価に法外な騰貴をきたさせないための手段を講じ、ちょっとでも値上げをしようものなら直ちに没収を食らわせた。

 しかし流石にどうも支那人に対しては、同断というわけにいかなかった。しかも野菜、家禽、獣肉に至るまで、これをわれわれに供給した者は支那人である。すでに6月において彼らの要求は法外であった。いわく、馬鈴薯1ピクル(1担)10円、鶏1羽56円(5〜6円かもしれない)、籠城の終期に近付いてはこの価格が3倍に高騰したこと、言うに及ばないのである。

 本艦艦長の遠き慮りに浴したので、われわれは決して生糧品に事欠かなかった。市街に別荘を借りていた本艦の一士官が、一同のためにこれを開け渡してくれたので、艦長シュルツ氏は、数頭の牝牛を買い、わが兵員の中から一人牝牛係を出してその世話をさせた。この牝牛の中には仔を産むものもできて、他の艦では塩豚を用いるまで窮乏に陥った時、我らは外来の同僚士官に仔牛のカツレツやその他の新鮮な肉類をふるまうことができた。雌鶏が150羽いるので、新しい卵や若い雛鳥がけっして食卓から断たれたことがない。

 園内の余地には、多数の豚、羊、鵞鳥、家鴨が飼養されていた。我らはまた艦員中、入籍前に園丁を生業としていた者2名を探し出し、籠城の初めにいろいろな野菜を播種させた。ゆえに7月になってノヴィック士官室の食卓には、自慢じゃないが玉ねぎがつく。この玉ねぎはすこぶる好評で、なお他にも種々の良い野菜が食卓に上った。その翌月陸軍のご同役は、己が驢馬(ロバ)を食わなければならないという騒ぎなのに、我が艦員は毎朝新鮮な肉の一日分を受け入れるありさまであった。
 されば乗員はこぞって好艦長シュルツ大佐に深く感謝の念を抱いていた。艦長の用意周到な恵みにより、われわれは単に飢餓から救われたばかりでなく、籠城の大厄難のひとつである、食物の粗悪ということから免れ得たのである。
第27回・第6章終わり

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No.1875 ノヴィック物語・第26回
投稿者: 志郎 13 May 2014 22:41:25
 錨場に未だ5、6浬というあたりから、早くも艦隊は魚雷襲撃をこうむった。錨地に達した時はすでに暗くなっていた。しんがり艦としてのノヴィックは、発砲によって警急の合図にしろとの命令を受けている。投錨の間際にセヴァストポルは機械水雷に触れ、海水の奔入を引き起こしたが、ペトロパブロフスクの記憶がまだ薄れていない乗組員は、直ちに度を失ってハンモックや救命帯へ飛んで行き、ある兵員は実際に身を躍らせて舷外へ飛び出した。

 それでもまもなく秩序は回復し、艦を安全な場所に持ち込み得たのは、まったくセヴァストポル艦長(過日ノヴィック艦長から同艦に栄転した人である)フォン・エッセン大佐の冷静さと努力によるのである。本艦は海に飛び込んだ兵員を救おうとカッターを下ろしたが、たちまち自らが危機に瀕していることを発見した。すなわち本艦が僚艦から孤立したのを窺い、ごく間近まで近付いてきた敵駆逐隊の襲撃を撃退しつつ、一方でカッターを引き上げなければならなかったのである。
 ノヴィックが艦隊に戻った時、各艦は皆投錨を終わっていた。旗艦が錨場の指定をわれわれに信号することを忘れていたから、われわれは2戦艦の間に投錨した。暗夜に加えての混乱にもかかわらず、艦隊は艦隊航海長アザリエフ大尉の案出した妙法により、無事に碇泊することができた。(アザリエフ大尉はその後、数日のうちに戦没した)

 艦隊は全錨地に展開して一大新月形を構成した。その夜実証されたように、この陣形に対しては襲撃また襲撃ことごとく失敗に終わった。午後9時から払暁4時に至る間、われわれがこうむった襲撃は、無慮6回の多さだったけれども、艦隊に損害を与えたものは何らなかったのである。かえって敵はその駆逐艦数隻を失ったはずである。いずれにしても私は、敵駆逐艦の1隻が、我が探照灯照射の内に沈没するのを目撃している。この時すでに同艦は、たぶん機械に受けた損傷によるのであろう、動かずにわが砲弾の数発をこうむり、徐々に艦尾から沈没してしまった。

 これら小艦艇のほとんどすべては、みな自己の煙突から発生する火焔によって、その存在を暴露している。しかしこれは味方駆逐艦でも同じことで、12ノット以上の速力を出すとすぐに炎を吐いた。我が20世紀の機関官たる者が、かくの如き重大な結果をもたらす欠点を、今もって除去する方法を発見できないとは驚くべきではないか。この出来そこないの出動後、久しく不活動の期間が続いた。思い出すように高角砲撃に耽る戦艦によって、やっと単調さが破られる。巡洋艦は沿岸防備を固めるため、その大砲の一部を陸揚げした。ノヴィックは敵を背後から襲う任務を負わされた駆逐艦や砲艦に付随させられた。

 総攻撃を恐れたスミルノフ将軍の請求により、特例として一日、戦艦ポルタワ、巡洋艦ディアナ、パルラダ、バヤーンや4隻の砲艦と共に、本艦は出撃を命じられた。諸艦は敵をその背面から襲うのに適当な位置に錨を入れ、射撃を開始した。この射撃は海岸から注意して修正され、しかしてスミルノフ将軍がしばしば信号で祝辞をわれわれに送ったほど見事な効果を奏した。
 砲撃たけなわの頃、日進、春日の音に名高い煙突が水平線に現れてきた。艦数において優越している我らは、以前現在の位置に止まるか、少なくとも今しばらくその運動を見て進退を決めるため、機の至るのを待とうということになった。このとき敵の煙突は未だやっと水平線から出たばかりであるが、驚くまいことかその一弾はバヤーンのすぐそばに落下して素晴らしい水柱を打ち上げた。
第26回・終わり

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No.1874 ノヴィック物語・第25回
投稿者: 志郎 11 May 2014 23:18:12
 またある日私は、非常に有力な眼鏡を装置してあるバー・アンド・ストラウドの測距儀(旅順でわれわれが所有していたこの種の計測器中、精巧なのはただこれだけでしかなかった)に就いて距離を測っていた時、われわれと対峙している丘陵の斜面に、日本軍の小部隊がいくつとなく陣取っているのを発見した。距離が近いにもかかわらず、われわれが普通の眼鏡でこれを見落としたのは、彼らがすべてカーキ色の服を着用し、発見されることがないと確信して絶対静粛を維持しつつ腰を下ろしていたからである。照準宜しきを得た数発の砲弾は、彼らの隊伍の中に大狼狽を起こさせた。夜間彼らは、わが右翼面を迂回しようと企てたが、折よく到着したノヴィックは、彼らの小計画を打ち壊してしまったのだ。このためそれから長い間、彼らは自ら海岸に近付く危険を冒さないようになった。

 ここで遺憾に堪えないのは、鳩湾と西港を通じさせる運河を開削する計画が遂行されなかったことで、もしこの運河があったならば、われわれは攻囲軍の両翼を脅かし、防御軍に大きな援助を与えることができただろう。
 6月に入ってから太守は、ウィトゲフト提督に向かって、若干の戦闘単位が欠如していると伝えられる敵艦隊を攻撃するため、全艦隊を率いて出撃するのがよいだろうと、一再ならず提言した。太守およびサンクト・ペテルブルグと、われわれの間の通信連絡の方法は、ただ芝罘(チーフー)に送られたジャンクと駆逐艦ルテナント・ブラコフに依るのみであった。

 このルテナント・ブラコフは營口への渡航をたびたびやり遂げたものであるが、同艦はわが駆逐隊中の最速艦であり、これらの航海は常に大胆不敵な行動であった。というのは、日本軍がいつも彼女の帰路を扼して捕まえようとして、網を張っていたからである。ところが同艦もまたことごとくこれを逃れ続けた。同艦艦長の敏活と才知は高く評価しなければならない。
 6月23日、提督はついに艦隊を率いて出撃する決心をした。水道は前日までに掃海を完了している。黎明に戦艦がまず動き出し、徐々にその重大な艦体を外港泊地に運んだ。よりにもよったもので、いったい旅順口という港は、一時に一艦の出入りしかできないすこぶる不便な港である。そして吃水の深い艦は、ただ満潮の際にのみ通行ができるのだから、ややもすると二回の潮を利用しなければならない場合もある。ちょっとでも何か故障が起こった場合には、残りの艦はさらに次の満潮を待たなければならない。

 艦隊がすべて港外に出終わったのは、すでに正午を過ぎていた。これに引き換えわれわれの長引いた動作をよく承知している日本艦隊は、配備するに十分な時間の余裕を有し、そして午後3時に及んで敵の全艦隊は、旅順から約40浬のあたりに集合した。たびたび敵の数を勘定した後、提督は数において優越な相手を襲うのは不謹慎であるとして、旅順に帰還すると決心した。実に敵はわが11隻に対し、20隻以上を算したのである。

 こんな状態で戦った結果がどんなことになるのかは表現しきれないけれども、とにかく旅順艦隊にしてみれば、単にロジェストウェンスキー提督の来着のためであったとしても、なおこの際、わが艦隊は冒険的な一戦を試みるべきであっただろうと考える。もう少し精悍で、もう少し進取的な司令長官、例えばマカロフ提督のような人であったならば、わが艦隊がいたずらに港内にあって、無為寂滅を遂げるより、どのみちこの時に勝る機運を得られるとも思えなかったと、私はかたく信じるところである。
第25回・終わり

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No.1873 ノヴィック物語・第24回
投稿者: 志郎 09 May 2014 22:25:47
 籠城の初期にあたり、この緑岡こそ、われわれの間接射撃に与って大に力あったものである。すなわち観測者が常時その山頂にあって、彼らの頭上を飛過するわが弾丸を修正した。われわれがけっして見もしない標的を撃つのに、その結果がたいていはわからないと来るのだから、これは甚だ気乗りのしない仕事であった。おまけの本艦の4.7インチ砲の砲声といえば、私が今まで聞いたうちで、最も突き刺すような音響を発するので頭や耳が痛くなる。

 ノヴィックや砲艦は明け方から大連湾方面に出動したものだが、いつも機雷を捕捉しようとして掃海用具を曳航した船が先頭に立った。この機雷は日本軍が、我々が通航するだろうと想像した海面に、最も正確に毎晩投下したものである。我が全隊はしばしば機械を停止せざるを得なかった。機雷の爆発によって切断した掃海索を取り入れて修理し、そして再び繰り出すのを待ち合わせるためである。この間断なしの停止は実に気をイライラさせるもので、やがて日本艦隊が水平線に出現し、長距離から砲弾を飛ばして、いつもわれわれは旅順に退却しなければならなくなるのが落ちであった。

 ある日、実際ただ4、5浬しか走っていない航程の間に、この絶え間ない遅滞をさんざんに食わされたうちの艦長は、ままよどうなれ運は天に任せろという日頃の持前を現した。先に立ったのは吃水18フィートを越えるノヴィックで、日本の機雷敷設原を全速力で突破する。後から続くのは砲艦で、吃水12フィートを越えない掃海用運貨船を引きずりつつ、亀の子の速力でこれに従うという、常には見られぬ珍光景。並み居る人々はさぞかし面白がったことであろう。

 敷設原の真っ只中で、この狂的暴挙は、何を隠そう、我らの神経組織に堪えて甚だよい気持ちはしなかった。けれどもわれわれをしてまっしぐらに、その根拠地を出てきた敵のしんがりに殺到できるようにしたのは、どうしたってこの暴虎馮河の行為でしかない。そして敵はその根拠地を離れ来るには来たが、いたずらに12インチの砲弾のこない間に目的を完成して、晴れ晴れした心をもって元の古巣へ入り込む我らを見に来たに終わってしまった。
 ノヴィックの運は実に不思議で、本艦の通った場所で敵の機雷が掃海索に引っ掛けられたり、または本艦航海中一個の水雷が本艦推進器の後波で爆発し、ただ12ヤード右舷に寄っていたならば、本艦は真っ二つに打ち上げられるところであったことなどがある。

 緑岡を占領して、日本軍はここに旅順と眉目相接した。ゆえに我らの行動も愉快な気晴らしとなってきた。第一、あまり遠くに行かずに済むこと、第二、我々は目標として砲撃を加えつつあるものを明視し得るに至りしことが、その理由である。ある日、本艦が海岸近くに沿って航行しつつあった時、大コ山斜面のおよそ中ほどに、ひとつの黒点が我らの注意をひいた。ある者はそれを松の一叢だろうと考えたが、多数の人はこれを日本軍の一隊と認定した。艦長がこの疑わしい地点を砲撃しようと決心し、マキシモフ少尉はその大砲のひとつを自ら照準して目標に向けた。

 第一弾、その点は動き出した。あたかも全軍は小山の他の面に移ろうとしているかのように見えた。我らは試射用である通常弾を、ただちに榴散弾に換装した。これの炸裂円錐は正確に日本人を覆ったが、日本人はやがて屍の山を後に残して、蜘蛛の子を散らすが如くに逃げうせた。艦員が本当に興奮するのを目撃したのは、これが初めてである。普段は皆、各自の戦闘配置について静かにしているのであるが、このときばかりは誰も彼も狂的奮激に撃たれたらしかった。
 将校は全部、砲側に立ち、非番の機関兵は下から弾薬を抱えて運び揚げる。嬉々たる叫びは諧謔の声に混ざって聞こえる。そうこうするうちに日本艦隊が接近してきて、我々に向け砲火を開いた。しかし誰も切り上げようとする者がいない。われわれは信号を掲げて、しばしば小型砲艦オトワヂヌイに港内へ帰還すべきを促さなければならなかった。同艦はまったく危険に気付かず、海方面に起こっていることにはいささかの注意も払わずにいたのだ。
第24回・終わり

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No.1872 ノヴィック物語・第23回
投稿者: 志郎 07 May 2014 22:24:47
第6章
艦艇、日本軍を砲撃す……6月23日における艦隊の出港

 6月初旬における戦争の損害は、まったく機雷に起因するもののみであった。敵味方共に多数の水雷を敷設した。すなわち日本軍はわが艦隊の出港を阻止するためで、わが軍はまた彼らの砲撃を妨害するためである。ゆえに自然のこととてたがいに敵に損害を与えてやろうと試みつつ、一方で水雷を沈置しながら、両軍ともにたがいに敵の機雷を引き上げては破壊していた。当面の目的に対しては、あらゆる手段が工夫され、施行された。すなわち筏、駆逐艦、運貨船、芥船、アムール、果ては小さな商船に至るまで、掃海艇として使用されたのである。

 これに引き換え日本軍は、自己の駆逐艦の外何物をも使用しなかった。これら駆逐艦は幾回となくわが探照灯の照射をこうむり、そのつどたちまち要塞の砲火を浴びせかけられた。砲員は5、6隻は沈めたなどと公言しているが、しかし夜の明けてくるとともに、敵の形跡は皆消えてしまうので、これは決してアテにならなかった。日本軍はしばしば単に機雷を投じた風を見せたが、これは封鎖の終わりころになって特に烈しくなった。
 多分材料に欠乏をきたしたのであろう。われわれが引き上げた水雷の中には、たかだか4分の1しか装薬が入っていないものもいくつかあった。こんなものは爆発したところでたいした損害は起こさなかっただろう。時には彼らも兵法を変えて、機雷を流してよこしたものだが、岩にぶつかっては爆発し、いたずらに土民を驚かし、わけても漁夫を吃驚させるに過ぎなかった。

 ノヴィックはアムールを護衛するか、もしくは旅順、大連間を群れをなしてうろつき回るのが癖である敵駆逐艦を追い払うため、よく出動した。あるときは敵駆逐艦17隻に出くわしたが、そのとき彼らは連合して本艦に襲撃を試みた。ところがありがたいことには本艦の速力が速いので、楽々と一定の距離を保ちつつ、彼らをわが砲火の下に置くことができた。それで彼らは分かれて三群となり、三方から我を攻撃しようと試みたが、またもやこれにも失敗した。本艦は順次各群に向け砲撃を加えたから、彼らはノヴィックに斉撃を加えることを果たし得なかったのだ。かくて本艦は悠々として彼らを置き去ることができた。

 これは速力と熟練の功による。日本駆逐艦は追尾を断念した。おそらくはなはだ有効だったわが砲火によって被った損害の故であっただろう。油を流したような平穏な海面は、われわれをしてわが射弾の落達を正確に観測することができ、距離および方向に関する誤差の修正は極めて容易で、やがてわれわれは幾発かのわが射弾が命中するのを見て満足に感じた次第である。
 このようなことはノヴィックくらいの艦であれば、操縦宜しきを得る時には、駆逐艦はたとえその数がいかほど多くても、毫も怖れるに足らないことを我らに証明したのである。日本人も明らかに同一断定に帰着したことであろう。なぜならばそれ以来、敵の駆逐隊はノヴィックが現れたと聞くが早いか、いつも倉皇として逐電してしまったからである。

 6月初旬に及んで、攻囲軍はすこぶる勇敢に前進し、ために我が軍は旅順にごく近い緑岡(グリーンヒル=ルビ)まで退軍するに至ったほどである。この運動中日本軍の左翼は、わが艦隊より砲撃し得るほど海岸に接近した。ゆえに6月14日以降、連日この種の砲撃が演出され、そしてこの理由からほとんど何も正々堂々の戦ではなくも、少なくとも小競り合いを両軍大軍艦の間に起こして幕を閉じたのである。
第23回・終わり

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No.1871 ノヴィック物語・第22回
投稿者: 志郎 05 May 2014 22:05:13
 敵の上陸地点がどこであるか、もとより知るところではなかったが、まず何と言ってもダルニーだろうと、われわれは見当をつけた。それでそこに機雷を沈置しようと決定した。2月の初め、この目的を遂行するため、エニセイが同地に派遣されたが、自ら自己の機雷に触れて爆沈してしまった。これは激烈な議論を巻き起こしたが、なぜならほとんどすべての人はこの出来事を、当然に艦長の不注意に帰すべきだと考えたためである。されど、再びその惨劇の跡を究め、あえてその原因を解明しなければならないとする人は少なくない。何事もこれを艦長の不注意や無能に押し付けておくことは、いとも容易いことである。

 かつてステヴァノフ中佐は、大学出のすこぶる才能に富んだ将校で、自ら1隻の水雷敷設船を設計した。実にエニセイは彼の設計に基づいて建造された船であるが、まず付け加えておかなければならないことは、海軍大臣が無遠慮にこれを改造してしまったことだ。それでついに中佐は、彼の考案による生まれるべき子とは似ても似つかぬ子の父親たるべきを命じられた。

 しかしその職務に熱誠で、特に魚雷および機雷に関することは、何に限らず一身を傾倒した彼は、お上が可なりとして採用した彼の考案の一部を頼みに、その全力を振るおうと決心した。そしてひとえに彼の企業的かつ大胆な性情を発揮するまま、彼はしばしば建言して敵港の沖合に機雷を投下することの許可を求めた。彼が手を下したこの種の最初の行動は、時々雪荒れを伴って、気温が氷点下に達することも珍しくなかったどんよりと風の強い日に、大連湾に機雷を敷設することであった。

 ようやくにして彼が球形機雷400個の投下を完了した時、その1個が浮上しているとの報告を受けたが、当時の海上の状況は、これを改めて沈置する作業を許さなかった。彼が熟練に欠けたのかどうかの実際はともかく、機雷が敷設されていると感知させてしまうこの標識をそのまま放置するわけにはいかなかったから、これを爆発させようと決心した。
 ところが、まだその作業にとりかからないうちに、エニセイの艦底に突如爆発が起こり、そのため同艦は波底に葬られることになった。いったい何が起きたのか、考えるに同艦は、激浪のために繋維索が切れて漂流していた自分の機雷のひとつに触れたか、あるいは激しい吹雪に目を覆われて、自ら敷設した機雷線の上をまたいでしまったのに違いない。

 乗員を救おうとして、直ちにすべてのカッターが降ろされ、艦長は頭部に重傷を負い、爆発によって生じた各種破砕物の破片を全身に受けて、身は蜂の巣のようになりながらも、よく心の平静を保ち、総員乗艇の作業を促し、やがて最後に、今度は艦長の番であることを勧告された時、彼は断固として乗艇を拒絶した。そして部下将卒環視の中、艦と運命を共にしたのは天晴、真の英雄である。
 自分に何か計算違いがあったのか、あるいは判断上の単なる誤りであったのか、いずれにしてもこの変事の原因がそこにあったからには、一死をもってその過失を償おうと決心するに至ったのは、毫も疑うべき余地のない、たれか、あえて現在に及んでまで、彼の過失を責めようとする者があるか!

 数日を経ずに、またこれに似た惨劇が演じられたが、その状況の難易はとうてい前者に比べるべくもなく、その結果もまったく趣を異にしている。その結果ある利益を獲得することになった一件とは、敵に隠そうと希望するとともに、等しく味方の大多数にも秘密にされた。今日においては我らロシア人が事の真相を知るのに何も問題はない。ノヴィックの姉妹艦であるボヤリンが大連湾に派遣されて、エニセイが敷設した機雷の一個に触れたのだ。

 まず断っておかなければならないのは、ボヤリン艦長はこれに対しまったく責任がないことで、これら水雷の敷設図は、エニセイの沈没と共に亡失していたから、ボヤリンはまったく盲目状態で、ただ運を天に任せて命令を遂行するほかなかったのである。しかしながら珍事が突発して以来の、同艦艦長の態度はまったく不思議である。全乗員がすでに乗艇を終わった時、機関長からビルジ溜りの浸水が減退しつつありとの報告に接した。けれども艦長は少しも耳を貸さず、折よく到着した駆逐艦の一隻に飛び移り、なお浮かんでいる自艦を棄てて、全速力で馳せ去ってしまった。しかも去るに臨んで他の一駆逐艦に、ボヤリンを魚雷で撃沈すべしと命令していったのだが、魚雷は2本とも的を外れ、同艦は三日間漂流して、やがて岩礁に押し付けられ、その場で波浪によって破壊されてしまったのだ。
第22回・第5章終わり

URL: http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/index.htm

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