謎のこらむ・すぺしゃる・2


初期の駆逐艦戦略

初期の駆逐艦戦略・"H.M.Destroyers" / Paul Kemp より

by 新見 志郎

2001.09.05 初出

志郎さんによる特別コラム・第2弾です。

今回は「初期の駆逐艦戦略」です。
海防史料研究会の掲示板で連載されたものを、海防研と志郎さんの許可を得て転載したものです。
元の連載は2001年7月29日〜2001年8月12日にかけて、6回に分けて投稿されています。
文中でインデントがかかっている箇所は、志郎さんの訳注です。
なお感想などございましたら、新見 志郎さんに直接お送りいただくか、私宛てに送っていただければ志郎さんに転送いたします。


第1章

1914年まで、駆逐艦を戦争において最も有効に使う方法は、ほとんど考えられていなかったと言っていいだろう。兵器はすでに十分鍛えられていたが、その有効な利用法を浮かび上がらせる背景となるべき、蒸気軍艦時代における戦闘経験が決定的に不足していたのだ。
1904年の日露戦争では、これに参加した将兵、観戦武官たちによって、多くの戦訓が導き出され、研究されている。しかしこの戦争では、駆逐艦は水雷艇ともども、けっして主役ではなかったのだ。

本来、駆逐艦の用法は、魚雷を主兵装とする他の艦艇に対抗するものだとする見解が公式であるけれども、これを、その限定的な能力にもかかわらず、小型巡洋艦的に用いようとする勢力もあった。
一般教条的にはともかく、実働艦隊にあっては、駆逐艦を偵察目的に展開して巡洋艦用法に使う指揮官が、けっして珍しくなかったのである。

1905年、サー・ボールドウィン・ウォーカー中将 Sir Baldwin Walker が、亡くなる直前にものした書物には、彼が地中海艦隊の巡洋艦部隊を指揮した経験から書かれた、この問題についての見解が述べられている。
彼は、駆逐艦には非常に少ない数の士官しか配備されておらず、航海中は艦を指揮するだけで手一杯であり、存在するかしないか判らない敵に対して払うべき注意力を維持できないことを示唆した。また、駆逐艦は海上の偵察用プラットホームとしては不安定で、眼高も不十分であるとしている。

その書物の締めくくりでは、偵察のような巡洋艦的任務にあたるためには、正確な航法ができなければならないけれども、現在の駆逐艦にはこの資質が欠けており、本質的にこれを求めることが難しいとしている。
11年後、ジュットランド海戦において、この言葉は現実となった。航法の正確さを欠いたために、艦隊が危険にさらされる場面を作り出してしまったのである。もっともこれは駆逐艦の責任ではなく、巡洋艦や巡洋戦艦、戦艦で行われたことではあるが。

ウォーカー中将はまた、駆逐艦の基礎的任務として次の四つの項目を掲げている。
1・艦隊の前面に展開し、敵の魚雷攻撃艦船に対する防壁となること
2・艦隊が接近、通過しなければならない海岸や狭隘な海面の捜索
3・敵の港湾、海岸から出撃してくる魚雷攻撃艦艇への対処
4・すべての敵艦隊に対する攻撃


第2章

これら四つの項目は、戦争に向けて艦隊を整備しようとするフィッシャー提督によって踏襲され、彼が1907年に提出した対ドイツ戦争計画にも反映されている。これはさらにポーツマスの海軍学校において研究され、種々の机上演習に用いられもした。実際これは、1914年に戦争が開始されるときまで、海軍内部に根強く残っていたのである。
その頃にはすでに、先の項目のうち2と3が、主力艦の速力、装甲、装備する砲の進歩によって意味を失いつつあった。敵性海岸に主力艦隊が接近して行われる作戦そのものが、策定されなくなっていたのだ。

●注意していただきたいのは、ヘリゴランド・バイト海戦において、イギリス巡洋戦艦がけっしてヘリゴランド島が見えるほどの位置へ進出しようとしなかったことと、ドイツ海軍司令部が、ヴィルヘルムスハーフェンへの直接攻撃を、有り得るものと捉えて潜水艦に警備を命じたことです。ここにある温度差は、両軍の海戦に対する意識を反映していると思われます。

1890年にイギリスがヘリゴランド島を手放したのは、すでにこの時点で艦隊による島の確保が困難になったという認識があったためと推測できます。つまり、魚雷を装備した水雷艇の存在が強力になるにつれ、継続的に主力艦隊を敵地沿岸に展開するのは、危険や負担が大きすぎるということでしょう。単発的な接近までが危険であり、その必要が乏しいと認識されたのがいつのことなのか、興味は尽きません。

同じ1914年には、また別な兵器が海軍の視野に入ってきていた。潜水艦である。この兵器の潜在的能力は、艦隊に対して大きな脅威となるようにも思えた。これらはほんの10年前にやっと実用域に達したものだったが、この頃までに急速な進歩を見せていたのである。
これは、すでに昔の水雷艇と同様の襲撃能力を持ち、徐々に外海での攻撃的使用に耐えるだけに成長しつつあった。

いまだ駆逐艦対潜水艦の対決様式は定まっていなかったものの、ウォーカー中将が言及した艦隊のスクリーンとしての駆逐艦用法は、対潜水艦にも有効だろうと、漠然とながら考えられている。
攻撃しようとする潜水艦は、観察のために潜望鏡を使用するしかなく、これによってその位置が把握される危険を冒さなければならない。駆逐艦はこれを見張ることで潜水艦を発見でき、艦隊は潜水艦を避けることができると考えられた。

水中での移動能力に乏しい潜水艦は、艦隊に追従することができず、危険は最小限にとどまるだろう。しかし、当時は発見した潜水艦に対する次の攻撃手段がなく、駆逐艦は離れた位置から砲撃するくらいしか手だてを持たなかったのである。


第3章

本国海域や地中海で行われる演習において、駆逐艦はその能力を活かした艦隊攻撃方法を模索し、理想的な襲撃戦術を編み出そうとしていた。
すでに1887年頃には、一人の指揮官が有効に統率できる隊列は、ほぼ8隻が限度だろうと認識されている。この問題は、水雷戦隊に有力な嚮導艦 (フロッティラ・リーダー) を配置することで解決されようとしていた。これには当初巡洋艦が当てられたけれども、1914年頃にはその目的のための大型駆逐艦が建造されている。

嚮導艦は旗艦設備を持ち、より多くの麾下艦艇を指揮できるものと期待され、これらの水雷戦隊は通常20隻前後の駆逐艦で構成されていた。
数が多くなることは、その統御に不利を抱えるものの、集中によって生み出される攻撃時の利益のほうが、より大きいと考えられた。しかしながら、1914年当時の技術水準では、無線通信は信頼するに足らず、旗旒信号ではその繰り返しに時間がかかり、実戦で必要とされる機敏さに対応できなかったし、風や天候ばかりでなく、しばしば自艦の排煙によって視認できない状態になったのである。

これらの問題にも関わらず、水雷戦隊ではより有効な戦術が考案され、より遠距離からの攻撃が工夫されていた。1910年当時には、それまで理想とされていた戦闘距離400ヤード (360メートル) など、日中には自殺行為でしかないと認識され、駆逐艦による魚雷攻撃は、夜間においてのみ可能なのではないかとも考えられた。
それでも、艦隊の戦術運用における工夫や速力の向上によって、昼間襲撃は必ずしも不可能ではないレベルになっていった。

21インチ (53センチ) 魚雷の導入は、より長い射程、より大きな雷速をもたらし、進歩した制御装置によるより正確な雷道と相まって、さらなる長距離からの攻撃を現実にしている。それまでのわずか360メートルという限界は、1,500から2,000ヤード (1,400から1,800メートル) に延び、魚雷そのものの最大射程が7,000ヤード (6,400メートル) に達するに及んで、よりいっそうの延伸が期待された。

●当時の魚雷の性能 (例)
1888年:直径356ミリ、全長4.5m、重量338kg、炸薬量49kg、雷速26ノット、駆走距離600m
1901年:直径450ミリ、全長5m、重量541kg、炸薬量90kg、雷速28ノット、駆走距離1,000m (15ノットでなら3,000m)
1910年:直径533ミリ、全長6.4m、重量1,187kg、炸薬量130kg、雷速27ノット、駆走距離8,000m


第4章

当時の優秀な水雷戦隊指揮官たちは、総じて敵艦隊の正面からの攻撃方法を支持している。これを実行するためには、水雷戦隊は敵艦隊の前方へ進出し、反転して突撃しなければならない。
敵艦隊では、これに対抗するには艦隊を逸らせるしかなく、水雷戦隊側は第二の水雷戦隊をその予想される回頭側へ進出させておき、敵艦隊が回頭した場合には、そちらが正面攻撃を行うように準備された。

もし、敵艦隊が回頭しなければ、第一の水雷戦隊からの魚雷が目標を捕らえるだろうし、回頭すれば第二の水雷戦隊の攻撃が成功するだろう。何年にもわたって、この方法は水雷戦隊の代表的戦術となっていた。演習においても、演習用弾頭?( collision head ) を取り付けた魚雷を用いて有効性が証明されている。

●この記述には疑問を感じた方があるかもしれません。いわゆる十字砲火的な攻撃ならば、回頭しなければ第二の水雷戦隊の魚雷が命中し、回頭すれば第一の戦隊の魚雷が当たるはずです。
ところがこれは後の世の考え方なのであって、ここで言われているのは、魚雷の列線で敵艦隊を包み込むのではなく、どちらかの水雷戦隊が魚雷の有効な距離にまで突入できる、という意味なのです。

最初に、敵艦隊の正面からの突撃が述べられていることに注意してください。これは相対速力を大きくすることによって、敵の対応時間を短くしようとするのが目的でしょう。当時のイギリス駆逐艦が持っている魚雷は、1艦あたり2本でしかなく、攻撃はすれ違いざまの刺し違え戦法だったのです。

● collision head を「演習用弾頭」と訳してよいかどうか、自信がありません。どなたかご教示ください。また、これが具体的にどういうものかは判りません。

しかしながら、実戦は演習における戦術が有効な瞬間に起きるとは限らない。そして、この戦術が有効であっただろう時代には、それを試すような戦争は起きなかったのだ。
1914年にドイツとの戦争が始まったとき、彼らはこれに対し、強力な砲力とカウンター・アタックによって、このような理想的状況が作られないだけの実力を用意していたのである。敵もまた狡猾であり、それだけの技能を持っていたのだ。
また、このような状況が起こり得た大きな海戦はただ一度しかなく、水雷戦隊が苦心して作り上げた、2コ戦隊が異方向から突撃するという戦術を試す機会は、とうとう訪れなかった。


第5章

1914年に戦争が始まったとき、誰も、駆逐艦の真の役割を定めるだけの経験も見識も持っていなかった。10年前に行われた日露戦争においては、駆逐艦はまだ満足できる水準に達していなかったのだ。
それでも、艦隊におけるその任務は、現場では明々白々だったのである。そして戦争が始まったとき、そこでは駆逐艦にしかできない任務が次々に生み出されていったのだ。

潜水艦の急速な進歩は、主力艦隊が護衛艦のスクリーンなしで行動することを許さなくなっていた。そして、そこには艦隊駆逐艦がいたのである。公式には、そのような用法は定められていなかったのだが。
彼らの任務は主力艦に随伴し、これを攻撃しようとする敵の水雷戦隊を排除して、機会があれば敵主力に対する魚雷攻撃を仕掛けるものだったのだ。

艦隊駆逐艦とは別に、巡洋艦を中核とする遊撃戦隊があり、敵艦隊による本土襲撃に対抗していた。またこれは、敵海岸への攻撃にも使用されている。これらの駆逐艦隊は、ドイツとの戦争の間ハリッジを基地とし、数度にわたって様々な攻撃を行っている。これは、これら小型艦艇の用法について貴重な経験を与えてくれた。

駆逐艦に課せられた、もうひとつの重要な任務はパトロールである。潜水艦と機雷が重要性を増すにつれ、より広い海面を監視しなければならなくなり、昼夜を分かたない哨戒の対象となった。この任務にも駆逐艦はよく応えたが、さらなる重要な任務が付け加えられることになる。
ドイツに対する経済封鎖は、駆逐艦にその実行を求めることになった。商船は海上で捕らえられ、臨時の停泊地に連行される。この煩雑な任務には、いったいどんな軍艦が適しているのだろうか。数があり、速力があり、適度に武装している駆逐艦は、この任務にうってつけだったのである。

こうして駆逐艦は、艦隊でもっとも多忙な艦種となる。戦争の後期には、ドイツ潜水艦による無制限潜水艦戦が始まり、護送船団が生まれて、これの護衛も駆逐艦の長い任務リストに付け加えられた。長い航続距離もまた、駆逐艦に必要な性能となったのである。
しかし1914年の時点では、護送船団は海軍戦略に含まれていなかった。その当時、潜水艦による商船への無差別攻撃など、「考えられない」状況だったのだ。


第6章

また、別な任務が実戦経験の中から生み出されている。敵性海面に機雷を敷設する戦法は、高速をもって夜間に目的海面へ進出し、暗いうちに脱出できる敷設艦を求めた。なぜなら、日中に機雷敷設を行うことは、あまりにも危険で、また容易に機雷原を発見されてしまうために無意味だったからだ。

少数の特殊な機雷敷設艦が、この目的で建造されていたけれども、戦争の進行につれて機雷敷設を求められる海面は増大し、手が足らなくなったのである。他の船を転用しなければならない。そして駆逐艦以外に、この任務に適合した軍艦があっただろうか。
甲板に軌条を取り付けるのには、なにも苦労はなかった。そして多くの駆逐艦が有力な機雷敷設艦となり、この危険な任務に従事したのである。

1914年にドイツとの戦争が避けられなくなったとき、駆逐艦は集合させられ、スカパ・フローとロサイスでグランド・フリートの一員となった。また一部はハリッジで別艦隊を編成している。そしてそれぞれがパトロールを開始した。
これらを指揮する若者たちの中からは、自分たちの艦への信頼のあまり、本物の戦闘に参加するまで戦争が続いてくれればよいが、などといういささか不謹慎な声まで聞かれた。彼らの希望は、それはもう、うんざりするほど満たされたのだが。
そしてあるものには栄光が待っており、あるものには悲劇が訪れた。

1914年8月の最初の火曜日、ドイツへの敵対行動を開始せよという海軍省の通信が艦隊に受け取られたとき、イギリスの駆逐艦は、新しい海軍戦術など何も知らないままに、その役割を担う準備を整えていたのである。


補遺

"H.M.Destroyers" は、1956年にイギリスで発行された書物です。B6判で200ページを越えるくらいの分量で、1860年代の水雷を主装備とする軍艦から始まり、第二次大戦後のダーリング級、ウェポン級、バトル級といったあたりまでをカバーしています。まだ全部読んではいませんが。
目次を拾うと、

・カニンガム提督の献辞
・物語の始まり
・フィッシャー時代
・初期の駆逐艦戦略(本項)
・戦争における最初の行動
・ドイツ海軍の襲撃
・ジュットランド−巡洋戦艦の戦闘
・ジュットランド−主力艦隊の戦闘
・ジュットランド−駆逐艦の夜襲
・ドーバー海峡哨戒
・最初の護送船団
・大戦間の駆逐艦
・大西洋の戦い
・ノルウェイ作戦
・大撤退
・地中海の戦い
・マルタ船団
・ソビエト・ロシアと北極海
・極東の戦い
・今日と明日

と、なっています。和訳本ってありませんよね?

ポール・ケンプ Paul Kemp は著名な軍事記述家で、他に "H.M.Submarines" , "Fleet Air Arm", "Nine Vanguards" , "Prize Money" などという著書のある、元海軍少佐です。


index


home